05 届けられなかった
「あたし」
ラニタリスの顔が見えた。紅潮した頬は子供の混乱を示すようだった。金色がかった瞳が、惑いを乗せてエイルとイーファーを行き来する。
「ラニっ」
「イフル」
「違う、お前はラニだ! 俺がそう言うんだからそうだ、そいつの言葉なんざ聞くなっ」
腹の底から叫んだ。子供は、哀しそうな顔で、彼を見た。
「エイル、あたし、エイルが好き。ほんとに、すごく好きなの。でも、駄目。エイルの力より、この人のが、すごく強い」
「余計なことは言わずによい」
子供を〈砂漠の花〉と呼んだ男はぐいとその手を引っ張った。
「疾く、あれを我が手に」
あれ。
何のことか、考えるまでもない。
――〈風謡いの首飾り〉。
取られていない空いた片手を子供はゆるゆると動かした。すると不意に、その手にそれが現れる。
まるで高位の魔術師が何もない空間から杖を取り出すが如く。
サラニタと呼ばれ、ラニタリスと呼ばれ、イフルと呼ばれた子供にして鳥の姿をも持つ生き物の手に、きらめく首飾りが現れた。
「これだ」
呪術師はひったくるように子供の手からそれを取り上げた。
「これこそ、トルーヴの触れしもの。彼の力を以ってしてさえ支配しきれなかった神秘の首飾り。ついに、手に入れた」
「渡す、かあっ」
かっとなってエイルはまたも杖を振りかぶった。だが、彼が新しい技に目覚めるようなことにはならなかった。その前に、イーファーの方が先に術を放ってきたのだ。
拙い〈盾〉を張ってそれに対抗しようとしたエイルは、白い光が何の衝撃も与えず彼の防護壁を越えてきたことに目を丸くし、それから目をしばたたいた。
「な」
瞬時、世界は、白くなる。
とっさに思い出したのは、思い出したくもない真白き宮殿。
だがそこへ跳んだ訳ではない。と言うのも、伸ばした自分の指先も見えないからだ。
――視界をやられた。
「クソっ」
こんな術は知らない。
「見ていたくないだろう、お前に忠実だった使い魔が私の言うなりになる姿など。なれば、見ずによい。これくらいは呪いの礼というものだ」
たいそう捻れた感覚で、イーファーは言った。そして、笑った。
「使い魔を奪うには、最後の仕上げが要るな」
仕上げ。
前の主の、掃討。
糸が――この手にしっかりと絡まっていると、そうと信じていたものの、何とあっけないことか。
「では返礼だ、エイル術師よ。稀なる使い魔を支配しきれなんだこと、悔やむがよい」
イーファーはぐいと子供の頭を押したが、それはエイルには見えなかった。聞こえたのは、続く言葉だけ。
「やれ。かつての主より力を奪え」
「てんめえ」
ラニタリスにエイルを追い払わせようとは、何とも嫌味な思い付きか!
「魔なるものがよもや親愛など覚えてはおるまいが。どちらにせよ、我が言葉、我が命じるところには逆らえまい」
「あたし」
子供の声は、震えた。
「音をナラスなら、それが要る」
その言葉ののちに、わずかに間があった。呪術師は、よもや子供が謀る気か、とでも思ったのだろう。
結果、イーファーがどうしたか、エイルには判った。
――しゃらん。
音が、したからだ。
エイルは顔をしかめた。イーファーの口の端が上がるのはやはり、彼には見えない。
しゃららん。
優美なるその音色。
怒りと憤りに満ちた心が、穏やかに落ち着いて、ゆくような。
「どうだ? 我が屈辱が解ったか。いや、それ以上であろうな、お前に愛情を覚えながら、お前に術を行使する使い魔。悔しかろう、腹立たしかろう? さあ、先のように怒りに燃えてみてはどうだ、私には何ひとつ渡さぬと吠えてみろ!」
見えぬ世界に動揺をしている暇はない。嘲りの言葉にも何かを返す余裕などない。
しゃららん。
もう休めと。眠れと。優しく包み込む母の手に抱かれるように、何も案じること、なく。
「エイル」
呼んだのがラニタリスであったかイーファーであったかも、音色と戦う彼には判然としないまま。
エイルは両手を握り締めた。
しゃらん。
青年は歯を食いしばる。ここで、耐えなくては。
休め。眠れ。力を抜いて。
さすれば、心穏やかに安らうことができる。
覚えた痛みも苦しみも、全て拭い去られる。
一点の曇りもない優しい幸せが待っている。
誘惑は圧倒的で、どんな抵抗も簡単に雲散霧消するようだった。
(駄目だ!)
エイルは首を振った。
(負けられるか、こんなことで!)
そのとき、ふと感じたそれは――気配。
『駄目』
それは、彼の心の繰り返しではなかった。
『そんなふうに使わないで。その首飾り、その力をここで、そんなふうに使わないで』
「だ」
誰だ、という言葉は出なかった。
エイルの見えぬ視界、そこに光景が浮かび上がった。まるで、町角で人形芝居でも見ているような、不思議な感覚が訪れる。
それは、エイルとイーファーとラニタリスが立つ、この部屋だった。
しかし夜なのだろうか、ずいぶんと暗い。
見知らぬふたりの男女の姿が目に映る。
女が手にしているのはほかでもない、〈風謡いの首飾り〉であった。
エイルがどきりとしたのは、その首飾りにあるはずのものがなかったためである。――合板は白く、そこに不吉なる斑点はない。
男が部屋を離れた。
女は首飾りを手に嘆息し、ふと自身の左手を眺めて、首を振った。
何故だかエイルには判った。彼女は、選ばなければならないことの前に、躊躇っている。何に関してだかは判らない。だが、判った。彼女は、決断できずにいた。
いったい女が何に迷うものか、しかしエイルはそれ以上突き詰めることはできなかった。
天井板が音もなく外され、床に降り立った黒い人影が彼女の手にしているものを目にすると、やはり音もなく白刃を閃かせ、背後から女の首を――かき切ったからである。
エイルは悲鳴を上げそうになった。だが、声は出なかった。驚きのあまりに舌が凍ったものか、それとも過去の幻のなかに彼の声などは届かぬからなのか。
彼は、首飾りが血を受ける瞬間を見た。
ではここは、その場所なのか。
エイルは呆然とそれを見ていた。
ここは、あの首飾りに血の斑点がついた、まさしくその部屋だと言うのか。
しかしこのとき、それはまだ血がついただけの、神秘的な首飾りだった。
それが呪いの首飾りとなるのは、戻ってきた男が死んだ女に気づき、首飾りを手にする賊に気づいたときである。
男の発した力は凄まじかった。
魔術、魔力と言われるもののようでありながら、それだけに留まらない。それをどう表現すればよいものか、エイルには判らなかった。
男の激情は一瞬で過去の空間を揺るがし、遙か未来にいるエイルをすら脅かすようだった。
『やめてと言う声は、届かなかったの』
女の、声がした。
『いいのだと、私はあなたと一緒に帰ることはできなかったのだと、そんな声は彼に届かなかった』
『いいえ、私が臆病で、届けられなかった』
いつしか凄惨なる光景は消え、声だけが続いた。
『帰れば、私は選ばなければならなかった。決して答えのでない答え。――彼か、あの人か』
『彼を選ぶことができるとは思えなかった、なのに拒絶をしなかった、それは、あの人を選ぶこともできなかったから』
『選べなかった。選ぶ日がくるなど、思ってもいなかった』
『望まれたときにはっきり否と言うこともできなかった』
『去ったあの人をいまでも愛していると思えば、私は指輪を受け取ること自体を断るべきだった』
『でもそうじゃない。あの人は帰らないのだと知り、帰還を望むことも忘れて久しかった。彼との旅路は心弾むもので、これが幸せなのかとも思った』
『けれど、あの人を忘れた訳じゃない。判らない。いまでも判らない。私はどちらを愛したのか。判るのは』
『どちらも愛することは許されなかった、そのことだけ』
それは、青年が知ることのない、遠い昔の物語。女の静謐な哀しみは、遠く未来の青年魔術師にまで届いていた。
『あのときに拒絶をして、分かれていたら? 私はいつか、ほかの誰かを見つけたかしら。それとも、引き裂かれる心に翻弄されるまま、どこかで命を落としたかしら? どちらにせよ、首飾りは呪いを受けることなく、彼は故郷に戻ったでしょう』
『私よ。私なの。私がいなければ、彼の――いいえ、彼らの運命は違うものになった』
その嘆きに激しいところはなかった。長い時を経て色を失ったような、しかしそれは透明な哀しみだった。
エイルはそれに触れて胸が痛くなるようだった。
彼は知らない。そのような苦しい愛は。
だが知っている。選べぬものを選ばねばならぬ苦しさ。
異なる運命。狂った歯車?
誰しもが翻弄される、それは〈コルファセットの大渦〉のように。
彼女が歪ませた運命が、遠く、エイルの運命をも変えたと?
(違う)
エイルは首を振った。
(それなら、それがあんたの、それから誰だか知らないけどそいつらの運命だったんだ)
(そして、俺の)
彼はそんなことを告げた。過去の亡霊、幻の存在に声は届かないだろうと、思いながら。
『誰?』
だからエイルは驚いた。これが過去の幻影であることは間違いないのに、彼の声はいま、届いたのだ。




