08 脅しではない
「まさか」
「と、思うのか?」
じろりと睨んでやると、シーヴは肩をすくめる。
「まあ、魔術ってもんがとんでもない力を持っていることは、数年前にだいぶ学んだが」
「せっかく学んだんなら、活かせ。運のいいことに、司祭は偽物商人の話なんかより重要な何かを抱えてるのさ。俺たちには興味がないと仰る」
「だが」
シーヴは後ろを振り返った。
「いいのか」
彼はコルストの町を指差した。それは、見た目通りの穏やかな田舎町ではなく、獄界神官の支配する場所だということになるのだ。シーヴの言う意味に気づいたエイルは嘆息する。
「よか、ない。でもとりあえず、町びとを苦しめようって気はないみたいだし、それどころか寒さから守ってる。それに、仮にも館をかまえてるんだ。今日明日に全部燃やしちまおうなんて話にはならないだろう」
「明後日明々後日には判らん、という訳か?」
「よせよ」
エイルは首を振ったが、シーヴは茶化したつもりではないようで、真顔で続ける。
「そりゃ俺はあの町に何の責任もなけりゃ、邪悪を追い払ってやる義務もない。だが、放っておくというのも」
「放ってはおかないさ」
「どうする」
「普通で考えれば……近くの町の神殿に注進、ってとこだけど……」
エイルは言い淀んだ。
「俺はたぶん、目ぇつけられた。魔術師だってばれたし、あの名が何を意味するかも判ってるときたもんだ」
「注進すれば、お前だとばれるか」
「ばれる。十中八九。狂信者だって言ったろ、ああいうのはしつこい。どっかにチクれば、俺を燃やそうと追ってくるだろうね」
「じゃあ俺がやろう」
気軽く言うシーヴにエイルは呆れた。
「阿呆。一緒にいたんだからお前も同じだ」
「なら、どうする」
「お前が」
エイルはちろりとシーヴを見た。
「見て見ぬふりができる人間なら、よかったんだが」
「その言葉はそっくり返す。俺が何か言わなくたってお前が何かしようとすることに、俺は王子の座を賭けたっていいね」
「いつも要らん要らんと言ってるものを賭けるな」
エイルは思わず指摘をした。
「どうにかして、神殿には告げる。狙われるようなことになったら、当分〈塔〉にこもる。それがいいだろうな、俺にはいい隠れ場所があるんだから」
青年魔術師は少し自嘲するように言ってから、息を吐いた。
「でもいまはここを離れる。俺にはそれしかできない」
シーヴを危ない目に遭わせないためにも、とは言わなかった。言えば、王子殿下はへそを曲げて業火の神官と戦うとか無茶苦茶を言いかねないからだ。
「約束したよな。俺の意見に従うって」
エイルはそう言う代わりにそれを盾に取った。
「その誓いも砂漠でしか効かないとか戯けたこと言うなら、〈塔〉に砂漠まで投げつけさせてやるぞ」
「……判ったよ」
エイルが真剣であることは通じたようだ。〈塔〉の移動術はシーヴと相性が悪いという事実があったから、その脅しも多少は効いたのかもしれないが。
「いまは退く。だが放ってはおかない。それしかないな」
「判りゃ、いい」
彼は呟くようにして言った。シーヴが同意したことに対する安心感もあったが、やはり、苦いものもあった。
エイルは、悪事に対してあまり清廉潔白とは言えない。
本人は町憲兵にとっ捕まるような真似をしたことはないが、町憲兵を呼ぶべきである何かを目撃しても、見て見ぬふりをすることも多かった。
それは、巻き込まれては面倒だということもあったし、下町で働いていた頃は忙しくて、他人の不幸を――たとえば何かを盗られたとか、何かで追われて逃げ回っているとか、追いつめられて殴られているとか――どうにかしてやる余裕はなかったというのもある。
町憲兵の友人はいるが、何か事件の手がかりを掴んでいても必ず話してやる訳でもなかった。ちょっとした掏摸や喧嘩騒ぎ、そう言ったものは生き延びるために通らなければならない道であることもあり、何の同情の余地もないような非道い悪事でない限り、友人に注進に行くようなこともしなかった。
たいてい、その手の悪事というのは一度きりである。
盗賊を生活の手段にしている者ならば繰り返し盗みを働くが、そういう意味ではない。事件と事件の間に、連続性はない。起きてしまった事件の犯人を捕まえても、次の犯罪がなくなる訳ではない。〈鼠競い〉だ。いつまでも決着のつかない、子供の遊び歌と同じ。どんなに街が平和でも、人々がみなにこにこと幸せに暮らしているというようなことは有り得ないのだ――有り得れば、よいのだが。
幸い、彼の暮らしたアーレイドでは目を覆いたくなるような凄惨な事件というのは滅多に起こらなかったから、彼が見逃し、口をつぐんだ事々に対して、生活に余裕ができてからも罪悪感を抱くことはなかった。
だが、これは、どうだろうか。
コルストの町びとたちは、確かに何も被害を受けていない。それどころか、凍える寒さから守ってもらうという恩恵さえ受けている。
しかしこの先は、どうだろうか。
彼らが術を行わなくなるとか、ただいなくなるとか、それだけならばよいけれど、そんな確証などあるはずもない。町全体を生け贄に捧げようだなんてとち狂ったことを実行しないとも限らない。そうした犠牲を喜ぶ神なのだ。
それに、コルストの人々が無事であっても、コルスト以外のどこで何をしているものか。
放っておけないと言ったところで司祭とやり合うことなどできない。口にしたことはシーヴへの脅しではない。
一神官が業火の神の名を口にしただけで、エイルは相当の強い力を感じたのだ。その司祭が彼らを邪魔だと思えば、本当に、燃やされる。エイルの魔力では対抗しようがない。
数年前、まだ少年と言うのが相応しかった頃の彼ならば、やってみなければ判らないと館に乗り込んだだろうか。それとも逆に、何の躊躇いもなく逃げ出して、自分には関係ないと忘れただろうか。
判らない。
〈変異〉の年とその後の出来事は少年を大きく変えた。
昔から世の中は思い通りにならないことばかりだったけれど、大人になって力を身につければ解決することも多いと思っていた。
だが、そうでもない。
彼はまだ若く、魔術師としてはもちろん人間としても成長途上にあったけれど、世の中は、本当に、思い通りにならないことばかりなのだと知ることが成長なのだとすれば――それはあまり、嬉しいことではなかった。




