03 何を頼みにしている?
何の苦もない。
銀の糸を見つけること、掴み取ること。その後の頭痛も、ない。
これは彼の成長ではない。もしかすると、彼は真の意味ではもう、魔術師として成長しないかもしれない。まるで、一足飛びに成体となり、その後はほとんど変わらぬ姿を保ち続ける類の魔物のように。
たどり着いた町は、ウェレスの北端に近かった。
タジャスというこの小さな町をエイルが訪れたのはこれで三度目になる。
一度目はクエティスがいると聞いて訪ね、イーファーの不意打ちに昏倒した。
二度目は奇妙な焦燥感に駆られ、初めてたったひとりの力で〈移動〉を為した。あのときの胸騒ぎの理由は、何となく判るようだ。
一種の、予知。
即ち、ここを逃せばもう二度と、ゼレットの無事な姿を見れぬと――言うような。
そのような予知など、したくない。防げぬ悲劇をあらかじめ知ることに、何の意義が?
不思議な力は彼を助けない。翻弄するだけ。はじめに抱いた感覚こそが正しかった。
だが、それが、何だ?
何を見て取り、何を見誤ったとて、起きたことは起きたこと。起きることもまた――起きること。
三度目の訪問は、繰り返しエイルとエイルの大切な者たちを脅かした呪術師イーファーを追いかけて、ということになったが、エイルには気になることもあった。
何故、イーファーがタジャスに?
クエティスの望みはダナラーン。或いは貴婦人。
ダナラーンの目的は判りやすくも金。そこには支配欲や権力欲のようなものも付随する。
アロダとフェルデラについては、いまひとつ判然としないながらも、知識欲とでも言うのが近いのだろう。イーファーに荷担したという点でアロダはエイルの標的たり得たが、フェルデラは――少なくともまだ――敵ではない。
そして、イーファーは?
呪術で他者を殺すことを躊躇わず、トルーヴという精霊師についてあるかどうかも判らない「秘密」を探る、その果てにあるものは。
力を求めること自体であれば厄介だ。そんなふうに告げたのはオルエンだったろうか?
だが、やはりそんなこともまた、どうでもいいのだ。
エイルの望み。
アロダにはファドックへの、クエティスにはシーヴへの、それぞれ借りを返させた。
そうなればイーファーには無論――ゼレットへの借りを。
「エイル」
細い声で、肩の小鳥が言った。
「……手」
「ああ」
青年は忘れていたと言うように、血にまみれた両手を見た。
「ちょっと、気色悪いな」
水女神の印を思い出す。これについてウェンズと話をしたことがあったな、などと考える彼の前に拳大ほどの水球が現れた。彼はそれを両手で挟み、無造作に手を洗う。
使ったことのない術を容易に使えることは考えず。
自分が命を奪った人間の血であることも、考えず。
「エイル」
小鳥は再び、主の名を呼んだ。
「……大丈夫?」
案ずるような台詞に、彼は少し笑った。
「何だよ、俺の血だとでも思ったのか? 安心しろ、どこも怪我なんかしてない。――使い魔には、何の影響もない」
主に難あれば、それは使い魔に影響する。彼はそのようなことを口にした。
「あたし、そんなこと、言ってるんじゃ」
「呼んだらこい。それまでは外にいろ」
青年は小鳥の言葉を遮ってそう命じ、薔薇の刻まれた石を投げ捨てた。
目印は、もう要らない。
そうして跳んだ先が全く見覚えのない部屋であることも、そこに長髪の魔術師がいることも、ちっとも驚くべきことではなかった。
イーファーを目標に跳んできたのだ。力を得た身なれば、「引っ張って」もらわずにいることも、これまで訪れたことのない一点であることも、何の問題にもならない。
「イーファラード」
エイルが魔術で、それとも少し異なる力でやってきたことなど承知であるはずだが、イーファーは窓の方を向いたまま、エイルを振り返りはしなかった。はっきりと、声をかけられても。
「俺は、考えていた」
イーファーはやはり振り向かぬまま、そんな言葉を発した。
「砂漠の術師。トルーヴ。首飾り。偶然なのか。そうでなければ? 運命、宿命の類か。それとも見えざる神の御手?」
その口調は明らかに見下したもので、実は呪術師が敬虔なる神の使徒であったのだというような、思いがけないことにはならないようだった。
「調べれば判ることでもない。答えは幾通りもあり、どれを選ぶかは私が決めること」
「それで」
イーファーが何を言いたいのかは判らなかったが、エイルは気にしなかった。
「決めたかい。最期の言葉があるなら、聞いておいてやってもいい」
「ずいぶんと言うようになった」
そこでイーファーは振り返った。
「怒りか」
呪術師は凍れる瞳を魔術師に合わせた。燃えるようなエイルの視線はその冷たさに阻まれるかのようだ。
「協会では、教えている。強い感情は術の妨げ。時に思わぬ力を引き出すこともあるが、たいていはうまくない。そこに安定はなく、成功率は低くなるばかり。感情を抑えることは、よい術師への一歩」
「黙りやがれ」
エイルは怒鳴りこそしなかったが、怒りのあまり声は震えかけた。
「てめえに教えをいただくことなんざ、ない」
「それは『判っている』ということか。それとも『知ったことではない』と」
「どっちでも好きに取れ。死ぬ奴に、俺の感情を解説してやっても仕方ない」
「言うようになった」
イーファーはまた言った。
「何を頼みにしている? 仲介者を亡くしたお前が、不可思議な力に頼れるとも思えぬのに」
「生憎だな」
エイルは淡々と言った。
「お前が殺したと思っているひとは、生きてる。お前が俺から離そうとした力は、却って、近くなった」
これ以上、ないほどに。
かつて、クラーナが得ていた〈女王〉の使者としての役割。その力。かの詩人は〈鍵〉の力も得ていたが、エイルは自らの意志でより強い助力を得ていた。
「何だってやる」代わりに。
「皮肉だな、イーファー。お前の望みは何ひとつ、叶わない。ラニの言葉からも巧く逃げ回ってるようだが、それももう終わりだ。故郷に帰りたくないならそれでいいさ、一気に冥界まで送り届けてやるからな」
「ラニ」
呪術師はその名を繰り返した。
「――魔精霊もどき?」
「違う」
否定したエイルは、イーファーの顔に笑みが浮かぶのを見た。
「サラニタ。そうなのだな、やはり。首飾りとともに在りしもの。あれは、そういった存在なのだ」
「何を言ってる」
エイルは問いながらも、自らの言葉が霧のように散っていくのを感じた。イーファーがまともに答えるはずも、ないのだ。
「大した小娘を使っている」
それが呪術師の返答のようだった。
「私があれから逃れるのに、どれだけ苦労したか」
「苦労?」
その言葉にエイルは唇を歪める。
「そいつはけっこうなこった。何なら、もっとさせてやろう」
エイルはぱちんと指を弾いた。
「ラニ!」
呼ばれた使い魔は主の心を汲み取って、イーファーが知る姿――子供の姿で、彼らの前に現れた。呪術師がぴくりとする。
「こいつは、お前の術を解いたのか?」
その問いにラニタリスは、見えにくいものを見るように眉根を寄せ、じっとイーファーを見てから、首を振った。
「解いてない。逃げてるからハツドウしきってないけど、あたしが言ったことはまだこの人のなかにあるよ、エイル」
「上等」
エイルはイーファーを睨みつけたまま、うなずいた。
「強めろ」
このために魔鳥を連れてきたのだと、彼は思った。
「え?」
ラニタリスは問い返した。主が何を言ったのか、判らぬように。
エイルはイーファーを指した。
「できるだろう。よく見ろ。こいつが抜けた網目を細かくしろ。もう二度と抜けられないように。『小娘』の力に逆らえない悔しさを教えてやれ。お前の術が完成し、こいつが自分のしたことを悔やみ、もう野心など持つまいと聖人のように穏やかな男になったところで」
やはり淡々と、エイルは続けた。
「殺してやる」




