14 より本物らしく
「可笑しいな。笑える。ああ、感謝するよクエティス、俺はもう二度と、何かを面白く思って笑うことなんかないんじゃなかと思ってたんだ」
「何が可笑しいの」
ダナラーンはキッとエイルに視線を向けた。
「可笑しいさ。ダナラーン、あんたはいま、弟の術にはまったんだぜ。クエティスは首飾りをあんたに渡す気はない。少なくとも、まだな。あんたはそれを欲しいと言った、その一語で縛られたんだ。今後は簡単に、クエティスに命令することはできないぜ」
「何ですって」
「イーファーの奴、言霊に力はないとか言ってたくせに、こんな技も編むんだな。けっこうなこった」
エイルは笑ったまま商人を見た。
「クエティス、お前、何か持ってるな」
「何か、とは」
「あいつが術をかけた品さ。護符でも何でも。寄り代になる〈形〉だ。それをこっちに渡しな」
彼の顔から笑いは――消えた。
「心配しなくても、返してやるよ。ただ、それであいつを追う。必要だ、寄越せ」
「そのようなことを言われて、渡すとでも」
「拒否するなら力ずくだ。近くにいなきゃ、お前の呪術師はお前を守ってなんかくれないだろ」
躊躇わずに短杖を取り出す。クエティスは身じろいだ。
「守ってほしけりゃ、呼ぶんだな。俺があいつんとこに出向いてもいいけど、出向いてきてもらったってかまわない」
恫喝でもするより淡々とした言葉の方が脅しになることがあると、いつだったかエイルはそんなふうに思ったことがあった。だがいまは、そのように判断した訳ではない。ただ、いまのエイルから出てくるのはこれだというだけ。
「早く決めな。せっかく長を……いや、女を絡め取ったのに、死にたくはないだろ」
「――して」
「何?」
ダナラーンの声にエイルはそちらに目を向ける。
「ケミアンを殺して」
女はそう、繰り返した。
「絡め取った? 私を? あの子がそんな術を施したですって?――許せない、私を馬鹿にしようと言うのね。長年、かまってきてやったと言うのに」
「殺せと、そう言ったのですか」
クエティスもまた、ダナラーンに視線を向けた。
「若い内から真っ当な商人の道を捨て、あなたについて数々の汚い仕事をやってきた私を殺せと。それも、あなたに呪いをかけた忌々しい魔術師に対して、そのような依頼の言葉を口にしたのですか、ダナラーン」
「そうよ」
女長はきっぱりと言った。
「お前が先に裏切ったのだわ、ケミアン」
「裏切った」
「違うとは言わせない。私が与えた以上の見返りを求めたのでしょう」
見返り。
その語にエイルの胸は痛んだ。
だが彼はそれを見せない。
「それに、イーファー。あの子もまた、裏切ったのね。この男を殺して、エイル。これは〈紫檀〉の依頼よ。応じてくれれば、イーファーを探すことにも協力しましょう」
「それは、弟も殺せということか?」
面白くもなさそうに、エイルは言った。
「――そうね」
その姉は簡単に答えた。
「殺せ、と」
繰り返すように呟く商人の顔に、もし驚愕や怒りが浮かんでいれば、それは何も意外なことではない。
だがそこにあったのは、エイルが幾度か目撃をした――満足感を伴う暗い笑みであった。
「私を殺す。そう言いましたね、ダナラーン。美しき首飾り欲しさに。または、私と弟に謀られたとの疑惑のため、どちらでもいい」
クエティスは、その目に奇妙な悦びを目に湛えていた。
「使用人ではなく、あなたに都合のいい駒ではない私をようやく見ましたね、ダナラーン」
この男が何を言っているのか、何を悦んでいるのか、少し前のエイルならばちっとも判らなくて、口をぽかんと開けでもしただろう。いまでも、納得するというのとは違う。特別に同意をする訳でもない。
ただ、やはり、判る。
この男の感覚を理解することは決して有り得ないだろうとそう思った若者はいま、その暗さを理解した。
クエティスはいま、ダナラーンに「殺す」と言われたことを誇らしく思っている。
少し前であれば。エイルはそのようなことに気づけば、忌まわしいとぞっとしただろう。だがいまはただ、判るのだ。
〈黒の左手〉に掴まれた者は、同じ闇の色を見ると言う。
エイルはそれには相当しない。だが、近い。悪魔に望みを叶えてもらうために魂を引き渡す、彼が選んだ道はそれとどこが違う?
彼のように、はっきりと何かが顕現し、はっきりと運命を売り渡すことは、稀だ。だが人々は知らぬうちに日々選択をしている。なかには、知らぬうちに闇の道を歩む者もいるだろう。〈黒の左手〉は隠れるのがとても巧い。ひとは無意識のうちにその烙印を押されていることもある。
しかしクエティスは、自らそれを選びし者だ。イーファーもまた。
そしてエイル。
選んだものは異なっても、何かを代償にして何かを手に入れるというその決断は、よく似ていた。
「叶えてやろうか」
皮肉を込めて青年は言う。爛れた色を持って互いを睨み合い――それとも見つめ合っていたラギータ家ゆかりのふたりは、その声に魔術師を見る。
「ダナラーン。クエティスを殺して首飾りを手にしたいというお前の望み。そしてクエティス。たとえ呪いの技や、或いは殺意によるものであっても、愛しい女の目を自身に釘付けたいという捻れた希望。それらを叶えてやろうか?」
エイルは、低い声で続けた。
「予想以上に歪んだもんだ。こんなつもりでそれに呪いをかけてもらおうと思ったんじゃない。なのに」
魔術師は杖を回した。
「思いがけない顕現ってとこか。驚いたな、俺はこれを」
しゅっと音がした。杖が風を切る。
「爽快だと思ってるみたいだ」
赤いものが、走った。
商人は目を見開き、のろのろと首筋を押さえる。だが、そんな動作では噴き出した血がとまることはなかった。
「これは、お前がシーヴに向けてやったことだ。剣を動かしたのはアロダの奴でも、あれはお前の指示だったな。ランティムの領主はすぐさま手厚い看護を受けたが、お前には望み薄だ」
言葉がクエティスに聞こえているとは思わなかった。ただ、言ってやりたかった。
「因果応報。やったことは、還るんだ。覚えときな、ケミアン・クエティス。あと、数分間だけでも、な」
どう、と音を立てて商人は床に倒れた。血は噴きだし続け、床に赤い池を作る。
エイルはうつぶせになった商人の身体を容赦なく足で仰向けにさせ、死に行く男の懐を躊躇なく漁った。
「――これだ」
薄く四角く切り出された黒い石に白く刻まれているそれは、薔薇だろうか。クエティスに触れるうち、赤く染まった手にそれを取れば、当然、石は濡れた。白き薔薇は真紅に染まる。
「それから、これ」
エイルはクエティスに全くかまわぬまま、男が取り落とした首飾りを手にした。
それもまた、赤い血に浸る。
「これで、より本物らしくなったって訳だ」
本物の首飾りは血を浴びた。偽物も、また。
その皮肉にエイルはまた、わずかに笑った。
白い合板を濡らした赤い液体。
「本物」についた血痕らしきものを不気味に思った青年はいま、それをとても鮮やかできれいだと、思った。
何だか、感覚が麻痺してしまったような。
普段の、それともこれまでのエイルであれば、他者の命を奪うなどという行為はもとより、術で、いやもっと単純に剣で誰かを傷つけることすら、避けられる限り避けた。傷つける能力を持てばこそ、容易に振るってはならない力であることを知っていた。
だがいま、彼は簡単に、実に簡単にそれを行使した。
報復、という思いもある。彼らと同じか、それ以上の目に遭わせてやらねば気が済まない。
ここに矛盾や重さはなかった。
もしかしたらこれは、女王の贈り物、なのだろうか?
「ほら」
彼は首飾りをダナラーンに放った。自ら殺せと言ったにもかかわらず、魔術がそれを簡単に成し遂げるのを見たことはなかったのだろう。女は目前の出来事に呆然としていたせいか、それを受け取り損なった。がちゃん、と不様な音がする。
「それから、せっかくの申し出だが、この黒い石があれば俺にはイーファーの居所が判る。だからあんたの協力は要らない。つまり、イーファーを殺せと言う依頼も受けない」
もがくように動いていたクエティスの身体が、その動きをとめた。エイルは視線を向けることもしなかった。
「それをやるのは、俺の意志だ」
残された時間は少ない。
力を手にして、自由に動ける時間は。
――人を殺したと、そのような恐怖と後悔に駆られている時間は、ない。
苦みも、動悸すら覚えることもないまま、エイルは血に濡れた両手のままで〈紫檀〉の隠れ家をあとにした。




