13 欲しいですか?
与えられた時間は少ないと思っていいだろう。
女王は彼の言質を取った。エイルが彼の自由意志だけで動き回れる日々は、もう限られている。
それは判っていた。説明をされずとも、判っていた。
悔やまない。悔やむものか。彼が招いたことで、彼が選んだことだ。
自由と、或いは運命と引き替えに、手にしたものもある。
望んだことがなかったもの。それとも、望んだもの。
力。
「魔力」と呼ばれるものについては、相変わらずだ。基礎はあやふやで、オルエンから教えられたときどき中途半端に高度な知識だけがある。
だが、ウェンズ、それともフェルデラの言葉を使えば「ほかなる力」。いまのエイルにはそれがある。〈変異〉の年のときとは異なるが、あれに近しいものが。
望んだ訳ではない。それとも、望んだのか。
その部屋で互いの姿を認めたとき、それを意外に思ったのはエイルだったかクエティスだったか。
では、〈紫檀〉の長は、あの偽物の呪い――蛙やら羽虫やらにしてやる――を信じたのか。毒にも薬にもならない、空手形なのに!
そう思うと、何だか可笑しかった。魔術を怖れて当然なのだという同情的な感情は、少し前ならばともかく、いまの青年には浮かばない。
「何をしにきた」
先に口を開いたのは商人だった。
「偽物を取引材料に使ったことを悔やんで、本物を持ってきたか」
「まさか」
可笑しい気持ちでいたにも関わらず、エイルはわずかにも笑みを見せずに言った。
「偽物屋にはちょうどよかっただろうと、いまでも思ってるさ」
「呪い」
クエティスはエイルを睨んだ。
「わざわざそんなものまで丁寧にかけたという訳だ」
「お前たちの拙い偽物をより本物らしくしてやったんだ。感謝されこそすれ、文句言われる筋合いはないと思うね」
「呪い」
今度はダナラーンが言った。化粧気のない顔はわずかに紅潮している。その視線はクエティスの指先に向けられていた。――偽物の首飾りが、かけられた。
「そんな怖ろしいものがかかっているようには見えないわ。やはり、以前よりも美しい」
「欲しいか」
皮肉を込めて、エイルは言った。
「よかったじゃないか、クエティス。お前の新たなる貴婦人はそれをお望みだ。呪いごと欲しかったんだよな? 俺はそれには用はない、差し上げたらいいんじゃないか?」
「何のつもりだ」
商人は首飾りを握りしめた。
「返せと言うつもりでは、ないようだが」
「それには用はないって言ってるだろ」
エイルは繰り返した。
「用があるのはあんたのご友人、あんたの弟だ」
クエティスとダナラーンを順に見てエイルは言った。
「あいつはどこにいる」
ラギータ家に関わるふたりはそっと目を見交わした。
「彼をどうするつもり?」
「どうでもいいだろう」
「よくはないわ。弟だもの」
ダナラーンは薄く笑った。肉親の情があるような言葉を発したのが可笑しいとでも言うように。
「そう、あの子はいまでも本物、いえ、古い魔術師を追っているのね。どちらにせよ、あなたが面倒に思っているのはその点なのかしら、エイル」
「好きに思え」
女長の予測は真実とは異なったが、エイルは気にしなかった。
「では」
クエティスの方は、その発言を気にしたようだった。
「ダナラーン。あなたはもう、本物は要らないと?」
「私は初めから、殊更に求めたことはないわ。あれを作って神秘の味付けをするというあなたの案には賛成をしたし、偽物を出回らせる間に本物の在処を把握してはおきたいと思っていたけれど、ケミアン」
求めたことはないのよ、とラギータ家の女は言った。
「私はね、ダナラーン」
商人は女長を見た。
「あなたには、あれがよく似合うだろうと思ったんですよ」
「あら、有難う」
追従のような言葉に長はわずかに笑みを見せ、エイルは乾いたそれを浮かべる。
「それで砂漠まで追ったのか? 大した忠誠心、それとも恋心だな。中年の純情か」
「何とでも」
商人は動じた様子はなかった。
「はじめたことは最後までやり通したかった。だが、これでも目的は果たせそうだ」
「目的?」
問うたのはエイルだったか、ダナラーンだったか。
「そう」
商人はうなずいた。
「『貴婦人』のご機嫌取りか」
これは、エイルだ。
「私にそれをくれるのかしら? 呪いがある内はできないと言っていたようだけれど」
「そう」
どちらにとも取れぬまま、クエティスはまた言った。エイルとダナラーンがふたりしてクエティスを見つめることになる。
「これが欲しいですか? ダナラーン」
その問いはエイルとダナラーン、どちらにも意外で、彼らはやはりふたりして商人をまじまじと見た。
「どういう意味かしら、ケミアン」
「そのままです。あなたは欲しいですか、これが?」
「私にくれるために、手に入れたのでしょう?」
「半分はそうですが、半分は違う」
クエティスはちらりとエイルを見た。
「よい呪いをかけてくれた。私の知りたいことを知ることができそうだからな」
「どういう意味なの」
少し苛ついたようにダナラーンが言う。
「早く呪いとやらを解いて私に渡しなさい。……いいえ、もし、その美しさをもたらしているのが呪いだと言うのならば、そのまま」
偽物屋の長の瞳に、きらりと宿ったもの、それは欲望だったろうか?
「ダナラーン」
クエティスの顔に宿ったものは、笑み。エイルが幾度も目にした、人の好さそうなそれとは違う。
それは、どこか、勝ち誇ったような。
「欲しいですか?」
「どういうつもり」
女長の口調はきつくなった。
「私のために手に入れたのでしょう! ならば寄越しなさい、いますぐよ!」
「ちゃんと言ってください」
商人は笑んだままで言った。
「これが欲しいのだと。手に入れてきた私に感謝を。どうです、ダナラーン。あなたがどうしてもと言うのならば、私はこのままこれを渡すにやぶさかではありません」
「立場を逆転させようとでも、言うの」
ダナラーンは唇を結んだ。
「私の下で動くことに不満を覚えていると」
「まさか」
クエティスは首を振った。
「私はあなたが好きですよ、ダナラーン。サンスリーンの町でラギータ家の名を使いながらあのまま商売をやっていれば、安全で楽でした。それを捨ててあなたの計画についていった理由はあなたへの好意以外の何ものでもない」
「どうかしら」
ダナラーンは笑った。
「私ではなく、スーリィンでしょう。判っているのよ、ケミアン。あの絵画の娘とよく似た衣装を身につけたときから、あなたの目が絵画よりも私を追うようになったこと」
ふたりのやり取りに、エイルは微かに笑った。クエティスが結局は絵画のなかの女に惹かれ続けているようだ、ということも可笑しければ、その馬鹿げた恋心を利用し続けた女のしたたかさにも笑えた。
――こんな茶番が可笑しく思える自分にも。
「あなたが誰を愛するのでも全くかまわない。ただ、私についてきたのはあなたの意志でしょう。それをいまさら悔やみ、私を従わせようと言うの」
「まさか、と言っていますよ」
クエティスはまた首を振る。
「私はあなたについてきた。これまでも、おそらくはこれからもね。私はいまでも、あなたに籠絡された日の若者のようだ。まるで馴らされた飼い犬のようにビナレスを歩き回った。あなたの金のために」
「褒美が欲しいと言う訳? それならば、あなたには〈紫檀〉の権限をかなり任せているのだし、望んだときは銀貨だって金貨だって与えたでしょう。まだ不足なの?」
「不足、と言うのとは違う。いや、そうなのかもしれない」
商人は曖昧に言った。
「〈調教には賞罰を使い分けよ〉。あなたは賞として金を用意したが、私の望むものは違った」
「金ではない。まさか、私が欲しいなどと言い出すのかしら?」
「そう言ってはいけないと?」
男は女を見た。
「若者のように、身体が欲しいなどと言いはしない。だが、ダナラーン、私はあなたの金を増やすための機械ではない」
「認めろと、言うのね」
「少し、違う」
クエティスは三度否定した。
「だが私が何を望むのか、それはあなたに気づいてもらいたい。金ではなく、身体でもない。愛などと青臭いことも言わない。あなたが気づかぬままなら、私にも考えがある」
「考えですって」
ダナラーンは目を細くした。
「組織を乗っ取ろうとでも考えて、いるの」
「そのようなものは欲しくはない!」
突然、クエティスは声を荒げた。
「気づかないのだな。そうだろう、ずっとそうだった。それでも私はあなたの側にいた。あちらこちらに出向いても、ずっとあなたの側にいたいと思っていた。この先もそうありたいと思う。だが――あなた次第」
言うとクエティスは首飾りを掲げた。
「欲しいですか、ダナラーン」
女の目は首飾りに釘付けになった。エイルは先からじっと黙って、そのやり取りを見ている。
「私のものをあなたが欲しいと言う、それが聞きたい」
「判らないわ」
というのが女の返答だった。
「そんなことが望みなの? それであなたが私の言葉に従い続けるというのなら、かまわないわ。ケミアン、私はあなたのその首飾りが欲しいの」
「――ははっ」
たまりかねたように笑ったのは、エイルだった。




