11 リ・ガンたりしもの
――少し前のこと。
どうしてそれを思い立ち、いつカーディル伯爵とその息子のもとを離れたのか、自分でもよく判らなかった。
どうやったのかも判らない。
そのとき気づけば彼は、カーディル城の一室、鍵を持たぬ者が入れるはずもない場所にいた。王城に比べればとてもささやかなものだが、それでも宝物庫、金庫とされるものの前で、オルエンが防護の術をかけた木の箱を手にしていたのだ。
翡翠。
シーヴを守ることに力を貸した、緑の魔玉。
かつてこの城の主たる〈守護者〉を死の瀬戸際でとどめた碧玉がもう一度、その力を発揮することは――ないかと。
(どうか……頼む!)
よい細工が施された箱のなかで、原石は穏やかな光を放っていた。
(どうか、救ってくれ。お門違いだってのは判ってる、ゼレット様こそがヴィエルを守る役割にあるんであって、あんたは違う)
(それでも、頼む。駄目なんだ、もう、このままじゃ)
翡翠は、何も答えなかった。
二年前にエイルを呼び続けた石は、まるでただの石で、まさしく〈石の如くに〉沈黙を保った。
「助けてくれ! 頼む、このままじゃあの人は死んじまう! 何か言えよ、言わなくたっていい、力を貸してくれ、この前みたく!」
答えない。石は、石だ。――当然のことだった。
「何でだよ、おかしいじゃねえか。この前は、頼み込まなくたって助けてくれたじゃねえか。あれがお前とアーレイドの奴じゃなかったなんて、言わせねえぞ」
彼は呼びかけた。答えは、ない。
「何でだよ」
エイルは納得できないように言った。
「イーファーを追い払うなんて、お前にゃ何の関係もないことに力貸しといて、お前の守り手が危ういときにはだんまりなのかよ!」
応えは、ない。
石は、石だ。
彼がどれだけ呼んでも、何かを答えることなど、なかった。
ちらとも、何かを感じたような気配を見せることさえ。
当然のことだった。
石は、石なのだ。
「何で……だよ」
無力感に襲われた。
最後の希望が、絶たれた。
冥界の導き手ラファランはもう、そこまで伯爵を迎えにきている。いや、こうしてエイルが無駄なことをしている間に、もしかしたら。
戻ろう、と彼は思った。
無駄だった。無駄な期待だった。
不思議な力はもう彼を助けない。彼には何もできない。
ランティムの、名前も知らなかった一兵士であろうと。運命の絆で彼と繋がった、カーディルの伯爵であろうと。
望むようには、助けない。
(何を望んだんだろう)
(馬鹿な、ことをした)
(戻ろう)
(ゼレット様は、まだ――)
ぎゅっと唇を噛んだ。まだ生きているだろうか、などとは、考えたくなかった。
『――望むのか』
そのとき、はじめは――自身の思いの、声に出されぬ悲痛な叫びの、反射のようなものだと思った。
『一度、手を貸した。何の代価も求めることなく。それを再びと、斯様に望むのか。リ・ガンたりしものよ』
だがそれは、彼の心に響いた虚ろな木霊ではなかった。それは、間違いようもない、力ある声だった。
「――翡翠の、女王」
青年は、口を半端に開けた。
それの名をエイルは知らない。名があるのかさえ。ただこの存在をそう呼んだのはシーヴであり、オルエンであった。
「聞こえたのか、俺の声」
彼はすがるように言った。
「聞いててくれたんなら、それじゃ」
失いかけた希望が、闇のなかの灯のように眩しく瞳に映った。
これが何であるのかは判らない。
人外という語で括ったとて、ラニタリスのような魔物とも違う。〈女王〉に肉体はないだろう。言うとすれば上位精霊――名の伝わらぬ九番目の神のような――なのかもしれない。オルエンなればそのような考察と観察を進めたかもしれないが、エイルにはそのような興味も、余裕もなかった。
「それじゃ、助けてくれんだな。あんたの翡翠の守り手、ゼレット様を」
「否」
答えは短く、早かった。エイルは愕然とする。
「私はお前を戒めにやってきたのみ。リ・ガンたりしものよ、お前は翡翠と関わりを断つことを選び、ただ人の道を望んだ。手にした力では打破できぬと嘆いて、ほかなる力に泣きつく。一度は聞いた。お前の意志の強さと、かの小鳥の機転に敬意を表して。だが」
それまでだ、と存在は告げた。エイルは堅固たる大地と踏み出した足の先が薄氷であると知った。
「じゃあ」
青年は歯ぎしりをした。
「見捨てるのか!? あんたが定めた〈守護者〉だろ!」
「もはや彼は、守護ではない」
それが女王の返答だった。
「彼は、彼自身の意思で、その言葉で、血統に任を譲り渡した」
「――ソーン」
伯爵位と同時に、ゼレットはそれをソーンに譲ったのか。
「それ故、彼はもはや、守護ではない」
「だ、だからって!」
エイルは声を張り上げた。
「ゼレット様が守護者だったことに変わりはない! 二年前、何度も危ない目に遭って、それでも俺を手伝ったくれた! あんたをだ! なのにそれを見捨てて、死んじまえって言うのかよっ」




