07 洒落にならない
青年魔術師は、説明を求める砂漠の王子にろくな口を利かず、とにかくこの町を出ると主張した。
「おいおい」
問答無用で旅支度を調える――と言っても、大した荷物がある訳ではないのだが――エイルを見ながら、シーヴは呆れた口調で言った。
「『魔術的に』どんな脅しを受けたんだ? 確かに俺もあのとき、少し妙な感じがしたが」
「その感覚を信じとくんだな。とにかく、この町のなかじゃ何も言えない。話は出てから。それからどうしても戻りたいって言うなら……まあ、俺はとめるけど」
エイルの言葉に、シーヴは判らないと首を振った。
「判らなくてもいいんだよ。いや、判ってもらわなきゃ困る」
「どっちだ」
「ええい、いいから早くしろ」
エイルはほとんど怒鳴るようにして言った。
「――で」
仕方なしに友人の命令に従った王子は、夕刻になろうという街道で咳払いをした。
「話してもらおうか。よりにもよってこのクソ寒い季節、夜になろうという時間帯に、何でか暖かく守られているらしい町をわざわざ出なきゃならなかった理由というやつを」
「お前も、気づいたはずだぜ」
エイルは苦い顔をして言った。
「何がだ。あの名前がどうかしたのか。確か、オブロ」
「言うなっ」
彼はほとんど耳を塞ぐようにした。
「どうしてお前は平気なんだ!……ああ、違うな、これは証拠だ、俺が忌々しい魔術師なんだってことの。ちくしょうめ、我らが翡翠の女王陛下に永遠の呪いあれ、だ」
「お前はときどき、慎重なんだか大胆なんだか判らんな」
シーヴは少し面白そうな顔をして言った。エイルはそれを睨む。
「あのな。お前が面白がって何度もその名を口にしないうちに言っとく。あれは、業火の神の名前だぞ」
「業火だと?」
「そうだ、獄界神だよ。ほんとにいるんだな、そんなのを崇めるのが」
エイルは厄除けの印を切った。
「正確なところを言えば、お前がその名前を言ったって、そんなに力はない。あの神官が言うから強いんだ。まあ、ある意味、確かに神官だったってことになるけど」
「獄界神の、か」
シーヴは唸った。
大きな街にある八大神殿は、神界七大神と冥界の主神の神殿をまとめた言い方だ。
〈創造神〉フィディアル、〈戦神〉ラ・ザイン、〈大地母神〉ムーン・ルー、〈恋女神〉ピルア・ルー、〈幸運神〉ヘルサラク、〈知識神〉メジーディス、それに〈破壊神〉ナズクーファ。
これらは七大神とされ、聖なる存在である。破壊神と言えども邪悪な存在ではなく、破壊がなくては創造が生まれぬという神界の輪に基づく思想が根底にあった。
冥界の主神たる〈魂計り〉コズディムもまた聖なる神だ。人が死んで冥界に召されることは自然の理で、悼むべきことではあっても、怖れることではないとされる。
だがその理を打ち破るのが獄界の神々だ。
〈大魔王〉ロギルファルドを主神に、〈死神〉マーギイド・ロード、〈闇女神〉ドリッド・ルーをはじめとする様々な怖ろしい神がおり、悪魔や夢魔、女夢魔はこれらの使い魔だった。
死神の従弟と言われる〈猛る炎〉業火のオブローンが操る火は、自然神である火神のものとは異なり、生きとし生けるものを全て焼き尽くす。獄界に連れられ、その火を浴びれば皮膚のただれる苦痛を永遠に感じなければならないとも言われた。
これらは、間違っても聖なる存在ではない。良識のある人間ならば名を口にすることはない。言うことを聞かぬ子供を叱るときであっても、その名を引き合いに出す親などいない。それは、あまりにも禍々しいからだ。
〈業火神〉オブローンというのはあまり一般には知られていない名前だが、仮にも魔術師を名乗るなら叩き込まれる名前のひとつではある。
エイルのそう多くない知識のなかにもその名はあり、だが、これまで思い出したこともなかった。そんなものと関わる機会などあるとは思えなかったし、ほかにも覚えていなければならないことが多すぎた。
だが、その名により発せられた力は、端くれだろうと駆け出しだろうと新米だろうと弱輩だろうと、魔術師である彼には明確であった。まるで、燃えさかる火を目前に突きつけられたのと同じように。
「業火の神官。司祭。そいつは、町を寒さから守るくらい簡単そうだな」
シーヴはうなるように呟いた。
「誰かさんみたいに寒さに弱いのかもな」
エイルはわざと茶化すようにして言ったが、不吉な感じは拭えなかった。
「ありゃ、狂信者だよ。いきなりお前に術をかけようとした。殺そうってほど強いもんじゃなかったけど、呪いの一種だ。あれをまともに受けてたら、お前はこれから一年は不遇に見舞われるとこだった」
エイルは嫌そうに首を振った。
「『忌まわしい』魔術師だって、滅多なことじゃいきなり術を使ったりしない。あれじゃまるで、人混みで肩が触れたぐらいで短剣を抜くような、性質の悪い盗賊だ」
青年魔術師は嘆息すると続けた。
「でも困ったことに、信仰ってやつはそんな短慮も正義にする。強い信念って訳さ。あいつらにこれ以上、目をつけられたら洒落にならない」
「それで、〈尻を蹴飛ばされた馬のように〉逃げ出した、と」
「何とでも言え」
エイルは唇を歪めた。
「ありゃ、やばい。『リグリス様』に会えなくてよかったさ。俺は、魔物の謡う歌が砂漠から消えたってネタを持ち込んでやろうかと思ったんだけど――」
「どうしてだ」
「何?」
問われたエイルはきょとんとした。
「どうして、そのネタが司祭の興味を引くと思った?」
「そりゃ、クエティスが」
エイルは答えようとして、迷った。
確かに、クエティスは例の首飾りの噂をしていたようであり、この町の司祭と面識があるようだった。だが、首飾りと司祭がつながるというような話は、何もない。なのに何故、エイルはその話を材料にしようと思ったのか。
「……おかしいな。どうしてだろう」
「おいおい」
シーヴは眉をひそめた。
「何か感じ取りでもしたのか、リート」
言われた魔術師は口をへの字に曲げた。
「そういうんじゃないと思うけどな」
不穏なものを感じ取れる能力でもあるのなら、実に助かる。もちろん、感じ取ればなるべく近寄らないようにする。つまり、その話をしようと思ったのが何のためであれ、やばくなりそうなことを好んで近づいていく気質はエイルにはないから、魔術で何かを見て取ったのではない。と思う。そのはずである。
「神官の類なら神秘が好きかと思った、ってとこかな。クエティスを呼ぶってのは、その噂話を聞きたがるためかもしれないと思った。うん、そんなところだろう」
エイルは自分の言葉に自分で納得するように言った。
「でもこうなりゃ、面会が為せなくてよかったよ。もし、司祭が本当にクエティスの噂話に興味を持ってたら、歌が消えましたなんてのは気に入らない内容だろう。不興を買えば、俺もお前もいま頃、灰だ」




