06 叩き潰してやる
銀色の筋をたどり、目的通りの見覚えある場所にたどり着いたことは、当然のことだった。
嫌な頭痛は、もう彼を訪れない。
エイルはいつしか、難なく魔術の〈移動〉をこなしていた。
音もなく姿を現した若者を認めると、部屋にいた女の目は軽く見開かれた。
「イーファーは」
短く問うエイルに、神女の衣装をまとったダナラーンは薄く笑んだ。
「まず、それを訊くの。挨拶はなし? あなたの呪いで私が困っている話なんて、全く興味がないのかしら」
「ない」
エイルはやはり短く言った。
「イーファーがここに出入りしていることは判ってる。いるなら、出せ」
「私が弟に情愛を覚えてかばっているとでも思うのだったら、意外ね」
偽者屋の女長は肩をすくめた。
「彼は気儘よ。必要だと思えばくるし、そうでなければ挨拶も寄越さない。いまのあなたより、愛想がないわ」
いまにも前にも、エイルはこの女に愛想よくしたことなどなかったが、この瞬間の硬い表情に比べれば、あの日の警戒すら微笑みに思えることだろう。
「いないってのか」
「魔術師同士には判るのではないの」
「慎重に隠れられたら、判りにくい」
「あの子は隠れたりなんかしないと思うわ。彼の何があなたの怒りに火をつけたのだとしても」
「だが逃げた。何の意味もなく、人の――」
ぎゅっとエイルは拳を握った。痛いくらいにそうしなければ、怒りのあまり気を失ってしまいそうな、気がした。
「彼は何かとんでもないことをしでかしたようね」
ダナラーンは肩をすくめた。
「弟はあなたで遊ぶことにしたんじゃないかしら、エイル。猫が捕らえた鼠を散々いたぶって、それから殺すみたいに」
神官の格好をした女は、慈悲のない台詞を口にした。
「俺が、捕らえられた鼠だと?」
「違うと言うの? そんなに血相を変えて」
くすり、と長は笑った。
「なかなか可愛い顔をした子だと思っていたのに。台無しよ。それでは、東国の王子様の恋人に相応しく」
「黙れ」
そんな軽口にかかずらう気はなかった。「恋人ではない」と否定することすら。
「その口であいつのことを語るな。二度と、あいつのことを口に上せてみろ。蛙にでも、変えてやる」
その「魔術師たちにとって理不尽なおとぎ話」は、ダナラーンの顔色を蒼ざめさせた。
「まさか。怖い冗談を言うのね、エイル」
精一杯であろう強がりを以前は大したものだと思ったエイルだったが、今日は何の感情も動かない。
「蛙が嫌なら、蝗でも蚯蚓でも、何でも望みどおりにしてやる」
もちろん、エイルにそのようなことはできない。だが相手はできると思って怖れる。呪いは、それで成立する。
彼はいまでは、それを知った。
これは、魔術ではない。それ故、彼自身に還る危険性もない。言うなればただの空手形、偽物による詐欺商売、そのようなものだった。
そんなことを考える青年の顔には、乾いた自嘲気味の笑いすら、やはり浮かばない。
「イーファーは」
たっぷりの沈黙を取ったあと、エイルは再び口にした。
「いないわ」
気丈にダナラーンは言い、その目と目が合う。
「そうか」
エイルは一旦、視線を落とした。そしてその目を再び上げる。
「ならば、クエティスは」
女長の目が泳いだ。
「いるな。どこだ」
「いいえ」
「嘘だ」
きっぱりと魔術師は言った。
「そんな嘘など、魔力があれば確実に見抜く。弟はそんな話をしてくれなかったのか」
「まさか。それこそ、嘘だわ」
もちろんその通りである。嘘だ。ウェンズはそのような神術を身につけているが、エイルにはない。だが、そう答えてやる必要はない。
「嘘だと思いたければ思えばいいさ」
エイルはすっとダナラーンを指差した。そこに杖はないにも関わらず、女長の動きはとまる。これは魔術をかけられた訳ではなく、かけられそうだという恐怖に身をすくませたため。考えようによってはこれも魔術の一種、少なくとも呪いの一種だと言えただろう。
「ダナラーン・ラギータ。ケミアン・クエティスを呼べ。ここへ」
「呼ばせて……どうするの」
女は懸命に笑みを浮かばせようとした。だがその代わりに、額にうっすら汗が浮かぶ。
「今度はどのような呪いを?」
「あのとき、シーヴは言ったな」
わずかにエイルの口の端が上げられた。
「呪い『なんか』で済ませてやるほど親切じゃない、ってね」
女に向けられていた指が素早く中空を走る。ぱあんっと弾けたのは、ダナラーンの前の卓上にあった薄い玻璃の杯だった。ダナラーンは反射的に顔を覆うように手を上げた。袖のふんわりとした神官服は結果として女の顔をその破片から守ったが、袖の部分にはいくつかの破片が突き刺さった。
「杯の代わりに、そのきれいな顔をこうしてやることだってできる」
これは、本当だ。彼には、できる。その能力がある。
ただ、これまでやったことがないだけ。やろうとしたことも。考えることすら。
青年の明るい茶の瞳に映る暗い色。それはもしや、暗緑色をしていただろうか?
ダナラーンは沈黙をした。エイルも黙る。
「私を好きに動かしたいなら」
口を開いたのは女だった。
「必要なものがあると判っているはずね」
「はっ」
口先だけで魔術師は笑った。
「金が欲しいとでも? それとも、首飾りか?」
彼は首を振った。
「ねじれた力を……いや、本来のまったき力のことも知らない、それとも興味がないまま、ただ金になると、そんな、理由で」
金、力、何であろうと。
そんなくだらないものを欲する、くだらない人間たちのせいで!
「や、やめて!」
恐怖に満ちた悲鳴にエイルははっとなった。ダナラーンは頭を押さえてうずくまっている。――まさか。
彼の瞳に動揺は浮かばなかったが、まさか、と思った。
まさか、本当に頭を割ろうなどと、するつもりでは。
「ケミアンは確かにレギスへ戻ってきた、でも一度顔を見せたあとはどうしているのか知らないのよ!」
「顔を」
エイルは肩に入る力を抜こうと息を整えた。それから、冷静になろうと考えて――自分はこれ以上ないくらい憤ってはいるが、何も取り乱してはいない、と思い直した。
「顔を見せて、次は何のご相談だ?」
「相談なんて何も。ただケミアンは、失ったと考えていた偽物を……持ってきただけ」
「偽物」
エイルは繰り返した。
「あれか」
シーヴがレギスの盗賊組合と協力してクエティスから買い上げ、〈風読みの司〉ティルドの手を経てウェンズ、そしてエイルへと回ってきた品。オルエンが偽の――或いは本物の――呪いをかけ、本物と偽ってクエティスとイーファーに渡した。
皮肉なことにシーヴがその嘘を見抜き、冷徹な呪術師の怒りを買った。
偽物の、首飾り。
「あれ、か」
また繰り返し、エイルははらわたが煮えくりかえるような思いを感じた。
何という、変遷!
「あんたが持ってるのか」
「いいえ」
意外にもダナラーンは否定した。
「おかしな呪いがかけられているのだと言っていたわ。奇妙なことだけれど、私には以前よりもあれが美しく見えた。そんな呪いなら素敵だと思うけれど、ケミアンはまだ私には渡せないと」
その口調に悔しさのようなものが滲んだ。エイルは気づく。――オルエンの術が発動している。クエティスが渡すまいとし、ダナラーンが、欲している。
〈ドーレンの輪っか〉。ねじれて表裏の区別がつかない輪の話を思い出した。本物に見せかける目的でかけられた呪いが、よもや、ダナラーンとクエティスの間に亀裂を生もうとしているのか。
だが、いまのエイルにはそんなことはどうでもよかった。クエティスがダナラーンのために首飾りを求めているのだとしても、そんなことはもう、どうでもよかった。
「いま彼はここにいない。でも、探させるわ」
不意にダナラーンが言った。
「少し、時間を頂戴」
青年魔術師は、すぐには返答しなかった。
ごまかそうとしている、とも取れる。エイルの脅しが利いた、とも取れる。それとも、呪いがダナラーンの欲望を刺激し、首飾り――偽物――を持つクエティスを彼女自身が捜したいと思った、とも。
「どれくらい、要る」
たっぷり十秒の沈黙ののちに青年が言えば、女は考えた。
「一日」
「一日?」
「いえ、半日」
〈紫檀〉の女長は言い換えた。そこにあるのは恐怖か欲望か。
「……よし」
彼はゆっくりとうなずいた。
「いまからきっかり、六刻後だ。必ず、俺はくる。そのときに目当てのものが用意されていなければ」
エイルはきゅっと拳を握った。
「お前を羽虫に変えて、叩き潰してやる」
「魔術師」への偏見を利用した、こんな意味のない、同時に効果の高い、胸くその悪い脅し。そんなことが自分にできるとは思っていなかった。
魔力を持たぬ頃の自分ならば、言った当人も言われた相手も笑ってしまう、くだらない冗談。
少し前までならば、「魔術師」というものへの自嘲を含めた、皮肉めいた台詞。
だがいまは。
自分自身が王女や母を使ってされた、えげつない脅迫と同等。
だが、それが何だ?
彼らを羽虫にして叩き潰そうとしてきたのは、向こうではないか。
怒りは、あまりにも大きく、これまで青年を「エイル」たらしめていたものをことごとく曇らせた。
「弱みを突いて脅し返す」ことに苦いものを覚えた善良さはいま、エイルの内で完全に影をひそめていた。




