03 させたくないよ
「出たな、腐れ魔術師」
また心を読んだのか、とガルシランは言う。彼はクラーナが魔術師ではないと主張するのを何度も聞いているが、どうにもそう思えないときがある。いまもまたそうだった。
「だからねえ」
クラーナは嘆息した。
「僕のこれは、魔術じゃなくて経験。君もあと五、六十年くらい旅をして、たくさんの人と関わってごらん。若造の考えてることなんか、たいてい判るから」
ガルシランはクラーナの実年齢を聞かされており、「馬鹿な」と一蹴するほど魔術がもたらすものを知らない訳ではない。だが見た目に限って言えば、詩人は彼よりも明らかに年下だ。「若造」呼ばわりされるのはどうにも苦笑を伴った。
「彼に縁も義理も友情もない君は、通りすがりくらいのもので、だけどそんな自己を満足させられるような助言を思いついたんだろ。それを言うの、言わないの。いい年して素直に言うのが気恥ずかしいだけなら、もっと何か言い訳するかい?」
さらさらと言われ、ガルシランは降参とばかりに両手を上げた。
「異界、だ」
戦士は突然そんな言葉を発し、詩人は目をしばたたいた。
「何だって?」
「呪いを乗りこなすも解くも難しい場合。坊やの状況はそれに相当するんじゃないかと思っているんだが」
ガルシランは顎をかいた。
「正直、頭のいいやり方じゃない。だが、手段は手段だ」
「それは、どんな?」
「言うのは、簡単」
戦士は片手の拳を片掌に打ちつけた。
「より強い力をぶつければいい」
「何だい、それ」
詩人は眉をひそめた。
「〈短剣に打ち勝つには長剣で〉? それは、愚かなことのたとえだったと思ったけれど」
「しかし事実の一端でもある。陶杯を壊したければ床にでも壁にでも投げつけるのが簡単だ」
「ものの話じゃないんだよ」
「同じさ」
ガルシランは肩をすくめた。クラーナは胡乱そうに見てから、ふと笑う。
「いまのやりとり、まるで君の方が魔術師みたいだ」
言われたガルシランは片眉を上げた。
「そんな韜晦ではごまかされないからな」
「いい加減にしてくれよ」
「ただの人間だとは言わさないぞ、爺様」
「しつこいね。信じてくれるのはいいけど、話したことを後悔しそうだよ」
「事実だろ、爺様」
ガルシランは繰り返し、クラーナは両手を拡げた。
「事実だよ、若造くん」
言われた三十半ばほどの戦士は肩をすくめる。
「あのね、ガル。いまの僕は経験豊かなだけの、ただの人間。だから君の心を読むことはできないの。異界ってのは何の話なのさ」
「たとえば」
ガルシランは空中に円を描いた。
「地面に置いた輪っかのなかに、そうだな、投げ玉遊びに使うような球が置いてあるとしよう」
何かたとえ話がはじまったらしい、とクラーナは素直にその状景を想像した。
「それに手を触れずに輪のなかから球をどかせ、と言われたらどうする?」
「蹴る、と言うのは?」
「阿呆。頓知遊びじゃないんだ」
ガルシランは笑って言った。
「そうだね。じゃあ、ほかの球を投げつける」
「正攻法だな。まあ、要はそういうことだ」
「最初に置かれていた球が『呪い』、次の球が『より強い力』かい?」
「判りやすいだろ」
「判りにくいよ」
クラーナはそう返した。
「――俺が、な」
不意にガルシランの声が低くなった。
「これまでの暮らしで、もっとも不可解だったもの。暗い魔術だの、呪術の類とも戦ってきた俺が、いちばん理解しがたかったもの。それが異界だ」
「神界とか……冥界みたいな?」
首を傾げながら詩人は問うた。
「それならいいさ」
「じゃあ、獄界かい?」
「それでも、まだいい」
ガルシランの返答にクラーナは眉をひそめた。
七大神の住む神界。文字通り、神の世界だ。そこに人間が足を踏み入れることはない。唯一の例外は伝説の吟遊詩人ツゥラスで、彼は神々の世界を歩き、歌を作ったと言われている。
死んだ人間が往くのが、冥界。それは自然の理で、ひとはそこで魂を浄化され、再び人間の世界へ生まれ変わるとされている。
獄界は忌まわしきもの。正しい導きを受けなかった魂は獄界へ引きずり込まれ、永遠に責めさいなまれると言う、それは恐怖の対象だ。
「獄界の方がましな場所? それが『異界』?」
聞いたことないよ、とクラーナ。
「お前さんの豊富なる経験でも追っつかないことがあるって訳だ」
ガルシランが言うのは別に皮肉でもないようだった。
「魔物、というのがいるだろう」
戦士はそう続けた。
「街道を脅かす獣人や魔狼といった類のことだけじゃない。街なかで暮らす、人間によく似た姿をした人外。魔族とも言う」
「――知っているよ。見たこともある。いまの僕の目では、判らないけれど」
大きな魔力を持たされていた間は彼にも人外を見分ける能力があり、驚いて声を上げてしまったことも、そのために危ない目に遭ったこともあった。
「自然ではない存在。異なるモノ。あれらはどこから、やってくると思う?」
「……異界?」
「そうだ」
ガルシランはうなずいた。
「そうだと思う、という辺りだがな。力ある魔術師なら真実を知ってるのかもしれん。だがいまにして思えばあの場所は、人外がまとう不可思議な……どこか人を苛つかせる、あの奇妙な雰囲気に似ていた」
「あの場所?」
クラーナはまた問い返した。
「どこだい?」
「具体的な場所について触れるつもりはない」
戦士はそう答えた。
「近づくだけでやばい。俺たちはそのために分かれ……弟と友人はそのために死んだ」
この「俺たち」が誰とのことであるのかガルシランは言わなかったが、クラーナは推測できた。
「だが、ああいった力ならば、奇態な呪いも強引に破壊できるんじゃないかと考えてる」
「……ちょっと待ってくれよ」
クラーナは片手を上げた。
「君ですら不可解で、なおかつ怖ろしい場所だと判っているところに、エイルを行かせようってのか?」
「行かせようって訳じゃない。何も異界に近寄らなくたって、その力があれば呪いなんざ制せる。さっきの投げ球遊びの話をするなら、お前はほかの球を使って輪の外に出すと言ったが、ぶつけるなら武器でも石でも魔術だっていい。輪の外に移動させなくたって、破壊してもいいってことだ。だが、輪の方を取り去るなんていう裏技がある」
「判らないって」
クラーナは首を振った。まあ待て、とガルシランは片手を上げる。
「違う呪いをぶつけて、元の呪いを作用させないようにする、というのが球をどうにかする方法。輪を取り去るのは、理を変えるってことだ」
「……少し、掴めたかな」
詩人は考えながら言った。
「異界の力を使うことは理を変えること。ただし、命の危険を伴う。自分のみならず、親しい者にまで」
「シンプルにまとまったな」
戦士はぱちぱちと拍手などした。
「理を変え、呪いを操る。あいつならやってのけるんじゃないかと、俺はそう思う。まあ、お前は『彼は望まない』と言うんだろうが」
「言うよ」
クラーナは唇を歪めた。
「望まないだろう。でも、言う通りだ、ガル」
青い空を見上げて、詩人は小さく言った。
「望まぬことをやらずに済めば、いい」
エイルが既に選んだものを知らぬはずのクラーナは、しかしこのとき、自身の台詞が何かを言い当てているような感覚を覚え、それを振り払おうと頭を振った。
「俺は、手段のひとつとして提案してやりたいと思うがね。やっぱりお前、過保護だぞ」
「ああ、過保護でも何でもいいよ」
クラーナは顔をしかめて手を振った。
「彼は弟分みたいなものだもの」
「そりゃまた、ずいぶんと年の離れた」
「うるさいな。ガル、君、意外にしつこいね」
「面白いネタだからな」
戦士はにやりとし、詩人は言うんじゃなかった、と嘆息した。
「僕は、それでもやっぱり」
それからクラーナは東方に視線を向けた。
「やらせたくないよ」
「呪いを利用することも、解くために危ない橋を渡ることも、か?」
「そう」
吟遊詩人は戦士を見ないままで言った。
「たぶん、エイルはどちらかを選ばなければいけないんだろう。もしかしたら選んでしまったかもしれない、そんな気もする。でも呪いを操るなんて」
させたくないよ、とエイルの波瀾を知る友は呟くと、あとは口を閉ざした。戦士はもう、何も言わなかった。




