13 必ず底はある
「閣下」
その代わり、とばかりにソーンが前に進み出た。伯爵の執務室に行くまで剣の訓練をしていた青年はそれを腰に差しており、ゼレットの緊張を知って抜剣をしたのである。
「やめろ、ソーン」
ゼレットはその肩を押しやった。
「下がれと言っている」
「聞けません」
「お前はもう近衛じゃない。ウェレス王の臣下を守る任務などには就いていないんだぞ」
「ですが閣下にお仕えしている。これは当然の行動です」
「麗しい忠義心だが」
イーファーは手を振った。
「不要だ」
「つっ」
ソーンは右腕をひねられたような痛みを覚える。からん、と広刃の剣は床に落ちた。
「お前に用はない」
「用があるのは俺だな」
ぐい、とゼレットはソーンをかばうようにその前に進み出た。
「閣下」
「黙っていろ」
「そう。黙っているといい。私がやってきたのは、あの力と繋がるものを消してしまう、そのためだけ」
「ほう」
なかなかに拙い展開だ、と考えながらゼレットは言った。
「消す、ときたか」
「もっと直接的な方がよいか?」
イーファーは杖の先をゼレットに向けた。
「殺す、と」
伯爵は唇を結んだ。魔術の怖ろしさは知っている。よく。
以前にもこのようなことがあった。イーファーの言う「何かの力」のために。それを求める魔術師が、彼を「消そう」と。
あのときは、済んでのところで救われた。
救ってくれた相手を呼ぶ方法はある。
タルカスに託した護符。
しかし。
「そう簡単に殺されはせぬよ、術師」
エイルを呼ぶ訳にはいかない、とゼレットは判断した。この魔術師は、危険だ。
だからこそほかの魔術師を呼ぶべきだとは、ゼレットは考えなかった。この場に「ほかの魔術師を」ではない、エイルを呼ぶ訳にはいかないと、彼はそう決断を下していた。
「簡単ではないと。それについては」
イーファーはゆっくりと印を切った。
「誤りだったこと、死んでから知るとよい」
「やめろ!」
ソーンが素早く床を蹴った。
「駄目だ!」
ゼレットはそれよりも素早くソーンに飛びかかると、どうにか片手をひっ掴んで強く引き戻し、押しのけた。完全にバランスを崩した青年は床に手をついて倒れ込む。
「そのままでいろ!」
「聞けませ」
ソーンは最後まで言うことができなかった。
そのとき、印を完成させた魔術師の、不吉な長杖の先から、魔力を持たぬ人間には見えぬものが発せられたのだ。
びゅん、と風の音だけがする。
「くそっ」
ゼレットは運を天に任せて、思い切り左方に跳んだ。じゃっと異音がして、背後の壁に大きな切り傷ができる。
「なかなか、勘のいい」
「以前にも同じような術をかけられたことがあるのでね」
ゼレットはにやりとしてみせるが、本音はそのような余裕などない。術師の技を見切った訳ではないのだ。避けられたのはただの幸運、偶然である。
「〈風鎌〉から二度も逃れるとは運が強い。だが、三度目は、ないな」
ぎらり、と魔術師の瞳が光った。
「生憎と」
ゼレットはどちらへ跳ぶべきか、左右に目を配りながら言った。
「俺の運は、底なしだ」
「大した自信だが」
今度は素早く印が切られた。
「〈底なしと思われる沼にも必ず底はある〉。私が教えてやろう」
びゅん、と再び風鎌が唸った。
「閣下!」
ソーンが叫ぶ。ゼレットは避けた。――避けようと、した。
「ほら」
イーファーは静かに言った。
「尽きた」
塵ひとつなく掃除の行き届いたきれいな部屋に、鮮血が飛び散った。
「閣下っ!」
ソーンは飛び上がると、走るようにしてゼレットのもとにたどり着く。
その間、カーディル伯爵は驚きと激痛に目を見開き、その場に膝をついた。上等の上衣はぱっくりと切り裂かれ、その裂け目は瞬時に真っ赤となって破れた箇所を隠した。
そこは奇しくも、彼が以前、魔女から受けた傷跡と同じところだった。
「く……」
「――タルカス!」
「呼ぶな……ソーン……」
その場にくずおれながら、ゼレットは言った。だが、それはソーンの耳には届かない。
「タルカス! きてくれ、すぐに!」
「呼ぶ……な……」
しかし、執務官の青年が慌てて扉を開ける様子はない。血の池は見る間に大きくなっていく。
「ここまでくればあとは、時間の問題」
感情のない声が不気味に響いた。
「この部屋を縛った〈場〉を解いてやろう。砂漠の術師のうろたえる顔を見てやりたいのは山々だが、ここは引くとするか」
すうっと呪術師は姿を消した。しかしゼレットはもとより、ソーンもそのようなことにかまっていられない。
「閣下、閣下!――タルカス!……エイルっ!」
震える手で伯爵を支え、震える声で青年は叫んだ。
「ソーン様、どうし――閣下!」
〈場〉が解かれた瞬間に室内から聞こえてきた悲鳴に驚いて入ってきた執務官は、思いも寄らない状景に固まった。
「タルカス、それだ、その護符でエイルを呼んでくれっ」
「エイル? いったい、いや、そうじゃない、ムート先生を」
青年は、町に住むカーディル家お抱え医師の名を口にした。
「医者じゃ駄目だ、遅い! 閣下に要るのは魔術だ、それで血を押さえなければ、早く!」
言いながらソーンは懸命にゼレットの胸を押さえた。ゼレットは唸り声を上げる。痛みを与えることは承知なれど、出血をとめなければどうなるか、元兵士の青年には判りすぎるほど判っていた。
「早く!」
「護符だと? これか? だが、どうすれば」
どうすればそれが稼働するのかなど、タルカスは知らぬ。ソーンも知らぬ。ゼレットは知っているだろうか。だが、いまは。
「くそっ、判るもんか! 医者だっ」
「タルカス!」
それでは間に合わない、とソーンは叫ぼうとしたものの、踵を返したタルカスの理性に届くとは思えなかった。だいたい確かに、護符を握りしめて途方に暮れていても、何にもならない。
「ソー……ン……」
「閣下っ」
明らかに、重傷だ。激烈な痛みに、一瞬で意識を失ってもおかしくない。だがゼレットは微かに青年の名を呼んだ。ソーンは首を振る。
「駄目です、黙って」
「まずった……な……本当に、俺の運は……尽きた、か……」
「そんなこと、あるものですか! 閣下の悪運についてはいろいろと聞いています。いいから、いまは黙ってください」
とめどなくあふれる血流。どうすればこれを押さえられる?
無理だ。たとえ、医師が最初から一緒にいたとしても、このような。




