11 次にもある
南の城は、ようやく春の訪れを迎える。
まだ肌寒い朝は続くが、それでも凍るような冷えは少しずつ季節のうしろへと流れていった。
ウェレス領の南端に近い町、カーディル。
その領主はずいぶんと機嫌がよいようだった。
「何ですか、それは」
伯爵の先ほどからずっといじり回している紙切れのようなものを目にとめて、彼の後継者であるソーン青年が問うた。ゼレットは片眉を上げる。
「これはな」
彼はにやりとした。
「よいものだ」
「こう申し上げてよろしければ、閣下」
ソーンはいまだに、執務官たちよりも丁寧な口調でゼレットに話した。
「失礼ながら、それは魔法の品であるように見受けられますが」
ゼレットが魔術の類を好まないことはソーンも承知だった。
「その通り」
ゼレットは空いている片手でぱちんと指を弾いた。
「これがあれば、エイルを呼び出せるのだ」
「……成程」
この義父が、ソーンにはあまり馴染みのない形でエイル青年を好いていることはよく知っている。それは、カーディル城の誰もが理解していることだが、新来者であるソーンだけはどうにも嘆息せざるを得なかった。
クジナと呼ばれる趣味については彼も知っている。しかし、自分の義父が自分の友人に惚れているというのはあまりに近しすぎる、かつ生々しい話で、見て見ぬふりをすることが難しいのだ。
結果、ソーンはその話題が出ると困る。
エイルのことは友人として好いているし、ゼレットはソーンに対しては過剰な接触をしてくることもない。困った性癖さえなければ、気さくで尊敬できる伯爵だと本当に思っている。
だがその性癖が非常に問題だ。
恋人、または愛人が幾人もいるというのも、真面目なソーンには理解し難い。ましてやミレイン・ダールに求婚をしているなら、それ以外の女性と一夜を明かすなど、考えることすら許されないはずだ。少なくともソーンの貞操観念ではそうである。
しかしゼレットがそれを改める気配はなく、話によると以前よりはずいぶん減ったという話だが、そういう話を平然としてくるのは当のミレインであったりする。ミレインに言わせれば求婚などは遊びだということになるのだが、どうにも、やはり、この付近の関係はソーンの理解を超える。
「エイルに何かご用事があるのですか、閣下」
「それだ」
ゼレットは護符を卓においた。
「何の用事もないのに呼び出せば、あやつは拗ねるに決まっている。そこに、よい用事ができた」
伯爵はご満悦である。
「魔術師協会だ」
「ああ、例の」
青年はうなずいた。
ソーンとしては魔術師協会に関する報告などは伯爵の気に召さないだろうと考え、だが報告しない訳にもいかないとおっかなびっくりだった。だが、どうやらゼレットは「エイルに相談をする」という、当人には素晴らしく、エイルにとってはおそらく嘆息ものの結論に落ち着いたらしい。
「協会があれに興味を持ったらしい、ということは重要だ。エイルには絶対に伝えねばならん」
「あれ、とは?」
ソーンは当然の疑問を持って首を傾げた。ゼレットはすっと視線を義理の息子に移す。
「そのことだ」
ゼレットの口調からはいつもの軽い調子が不意に消えた。ソーンはどきりとする。
「話をしておかねば、ならんとは思っていた」
伯爵がふざけようとする様子はない。知らず、ソーンは居住まいを正した。
「何でしょう、閣下」
「二年前に、われわれは〈変異〉の年を迎えたな」
「はい」
何の話がはじまるのかさっぱり判らず、だがソーンは素直に応じた。
「六十年に一度、十三番目の月〈時〉を持つ〈変異〉の年。大きな厄があるとされ、時の月には厄払いの大祭をしますが、現実には、特に何もおかしなことは」
「あったのだ」
ゼレットはソーンの言を遮って言った。
「そして、次にもある」
もっとも、と伯爵は続けた。
「次回は、前回ほどややこしいことにはならないだろうが」
「何があったんですか」
「うむ」
ゼレットは瓏草を取り出した。この習慣は青年の好むところではなかったが、この場は黙っていた。
「カーディル城……いや、カーディル家に伝わるものがある」
伯爵はそう話をはじめた。
「ひとつの、翡翠だ。宝石としての価値は、あまりない。大きさはあるが、研磨されていないからな」
いわゆる「家宝」だ、とゼレットは言った。
「だが、ただの玉でもない。奇妙な伝承のおまけつきだ」
六十年に一度、〈変異〉の年になると「リ・ガン」と言われる存在が現れて、翡翠を求めるのだと言う。ゼレットは父からその話を聞いていたが、何だか馬鹿らしい気がしてあまり本気にしていなかった。
「それが、現れた」
「リ・ガン。何なのです、それは」
「翡翠の……ううむ、何であろうな。真の持ち主、というような気もするが、当人はそうは言わんかった。支配者というのとも違うようだし、翡翠の宮殿からの使者というところだろうかな」
「翡翠の宮殿」
ソーンは繰り返した。
「閣下がそのようなお言葉を使われるとは、いささか意外です」
「詩的で魔術的か? 殊、これに関してだけはそうならざるを得ん」
ゼレットは肩をすくめた。
「カーディルの家系は、その翡翠を守る血筋だ。俺は、妻が子を残さずに逝ってからも、別に血筋などはどうでもかまわんと思っていた。俺が死ねば、誰かが次のカーディル伯爵になる。それだけのことだと」
伯爵は煙を吐きだした。
「だが、そうはいかないことが判った。あの翡翠を守る。次のリ・ガンのために。そのことを理解しているものがいなくてはならない」
「六十年後、いえ、五十八年後のためにですか」
「そうだ」
伯爵は短くなった瓏草を消し、次を手にする。だがそれにすぐ火をつけることはなく、指先で弄んだ。
「次の〈変異〉の前に俺はまず間違いなく死んでいるだろう。お前もどうか判らんな。だが、伝えてほしいのだ。お前の息子か、娘か、誰にせよ」
「二年前に、何があったんですか」
ソーンはつい、問うていた。魔術嫌いの伯爵が、このように真摯に魔術的な匂いのする頼みごとをする。それはあまりにも驚きで、どんな事情が彼をそうさせるのか、不思議に思ったのだ。
「――詳しくは、いずれ話そう」
伯爵はそう言うと、意外なことにカァジに火をつけることをやめて、それをしまい込んでしまった。
「ただ、あの翡翠は決して手放してはならぬもの。守らねばならぬものだ。それだけは覚えておけ」
その口調はあくまでも、真剣だった。
「あれを渡してよいのは、リ・ガンにだけ。魔術都市……魔術師協会など、もってのほかだ」
ゼレットは微妙に言い換えたが、ソーンは特に不審に思わなかった。
「判ったか」
「心に留めておきます」
「しっかりとな」
「はい」
ソーンは真顔でうなずいた。正直に言えば判らないことだらけだが、この奔放な伯爵が突然、正式な後継者を求めた理由は、判った。
何故自分であるのかは相変わらず不明だが、ミレインが言うような「遊び」の一種なのかもしれない。何しろ、ウェレス城の儀式長官たる父とゼレットは昔なじみであるようだから、そこに青年の知らない事情があることも考えられた。
「それで、協会の問い合わせに苦い顔をされておいでだったのですね」
こうなると協会の言ってきた品がその「翡翠」であることは疑い得ない。ソーンは尋ね、ゼレットはうなずいた。
「何故、エイルに相談なんですか」
ソーンは知らぬままで核心をついた質問をした。ゼレットは唸る。
「それはな」
カーディル伯爵は卓を指でとん、と叩いた。
「俺が唯一知っている魔術師が、彼だからだ」
そんなものだろうか、とソーンは少し訝ったが、エイルを呼ぶための口実にちょうどいいと思っただけかもしれない、と思うことにした。
エイルが聞けば、驚いたろうか。
伯爵は知っている。エイルが、その事情を友人にも知られたくないこと。




