05 イフル
――目を開けたとき、青年は自分がどこにいるものか数秒ほど判らなかった。
何のことはない、変わり映えのしないいつもの寝台の上であることに気づくともぞもぞと起き上がる。
砂漠のただなかに住む数少ない利点のひとつは、砂さえ避ければいつでも太陽の恵みを寝具に受けさせられるという点である。ふかふかな感触の上で眠るのは気持ちがいいものだが、それは必ずしもよい夢をもたらすとは言えなかった。
あれ以来、エイルは夢というものを眠りの神の悪戯とばかり切り捨てることはできなかった。
もちろん、「ただの夢」であることがほとんどだ。あまりにも突拍子なく、奇天烈であったりする内容は、思い悩む必要がない。
困るのは、どこか現実に即した夢だ。
自分の不安が顕れたものにすぎないような、だが気になるような。
シーヴのときのように強烈ではっきりとしたものは見なかった。
しかしそれは本当に見ていないものか、はたまたかけらくらいを見ているのに気づかなかったり、忘れてしまったりしているのではないのか。
その危惧に押され、エイルは夢を覚える努力をしようとしたが、なかなかに難しい。いまも――何か、或いは誰かを夢に見たような気がするのに。
(よく知ってる、誰かだったような)
ぼんやりと青年は考えた。
(何だろ。何か落ち着かない)
(心配? 誰を。それとも)
(何を)
とりとめのない思考に集中しながら階段を降りた。
「おはよう、主よ」
〈塔〉から声がかかる。
「と言っても、もう昼近いが」
「そんなに寝てたか?」
エイルは驚いて返した。
「昨夜は遅かったようだから、仕方ないだろう」
「ああ」
エイルは頭をかいた。
「アルセントに渡されたやつ……あれの意味考えてたら、訳判んなくなっちまってさ」
ランティムの執務官アルセントの書いた――つまり、シーヴの書かせた手紙の内容は、二度あった「報告書」とは趣を異にしていた。
かの執務官が言っていたように、それは〈砂漠の花〉イフルについての歌と、それにまつわる話だった。
砂漠に降る雨のひと粒。いかにも伝説的、物語的だ。
砂漠に降る雨。そに並び立つ神秘は。
「どう考えたらいいのか」
エイルは呟いた。
文章は、こう謡っていた。
そに並び立つ神秘は砂神の羽根持つ使い。
民の間には、そんな歌語りがあると言う。ただ、意味のない戯れ歌のようなのに砂神が謡われていることを好まない者もおり、あまり謡われないのだと長は言ったらしい。
そして歌はこう続く。
空より舞い降りし七枚の花弁、七つの姿持ちし、空飛ぶ娘。
それらの名、ともにイフルと言う。
(何だか、ラニのことみたいだ)
砂神の羽根持つ、空飛ぶ娘。どうにもそれは、ラニタリスを連想させる。
「七つの姿を持つ」訳ではないが、「七」というのが実際の数に限らぬ「曖昧な複数」を指す場合もあるのは、魔術師には知れることだった。「鳥」と「子供」だけだとしても、複数ではある。
そして、関連を覚えさせるのはそれらだけではない。
歌はこう続くと言う。
砂漠で生まれしイフル、そは定めの織り手。
絡まる呪いの輪を抱く、そは砂神の娘。
イフルは砂漠の守り手とともにあり、長き癒しを呼ぶだろう。
歌は、そう結ばれた。
静かな調べの優しい歌だと言う話だ。
シーヴはこの詞をラニタリスと結びつけただろうか。判らない。
だが、あまりにも、連想させる語句が多い。
砂漠で生まれた。呪いの首飾りを持つ。オルエンが塔の主であった過去には民たちから〈砂漠の守り手〉と言われていた。エイルはそう呼ばれてこそいないものの、少なくともその塔を継いでいる。それに、首飾り本来の力である、癒し。
シーヴは風具の力は知らない。砂漠の青年にそこの関連性は見えなかったはずだ。
(それに、確かに重要性は感じられないし)
(だいたい、こんなネタ寄越したら、差出人がばれちまうもんな)
エイルはそんなふうに思うと少し笑った。
シーヴがこの話をエイルに送りやめたのは、公正な観点から見て、何も「差出人を秘密にしたいから」というような気持ちによるものではないだろう。記名を避けてきたのは一種の意地だろうが、必要なことだと思えば知らせてきたはずだ。
シーヴの観点からすれば、この伝説は彼自身やエイルが関わる出来事との関連性がどうにも薄い。〈風謡いの首飾り〉の意匠が仮にイフルの花であり、歌の娘がラニタリスを連想させたところで、それが何だ、ということになる。
少し前ならば、エイルも「それが何だ」と思ったろう。
だがいま。彼は知る。ラニタリス。呪いの輪。
偶然。それとも必然。
予言、或いは──運命、だと?
エイルが拾った子供は、不思議な首飾りの所有者にして、砂漠の伝説なのか。
(俺は)
(ラニタリスに「サラニタ」ではなく)
(「イフル」と呼びかけるべきだったんだ)
それは不意に、青年魔術師に訪れた感覚だった。
エイルがサラニタと名づけ、シーヴがラニタリスと名づけたその生き物は本来、イフルと呼ばれるべきだった。
(それが──何だ?)
エイルは顔をしかめて首を振った。
(いまの感覚。それだ(アリシャス)と思った)
(でも正直)
(意味が判んねえ)
これは魔術師の感性が。時折、青年を訪れるようになった「見える」もの。
彼はいまだそれを扱いかねていたが──いつまでもそうではないだろう。
「ラニタリスか」
〈塔〉はまるでエイルの心を読んだかのように言った。エイルは顔を上げる。
「ラニタリスを避けているな」
ずばりと〈塔〉は言った。エイルはうなり声ともつかない奇妙な音を発する。
「そういうつもりはないんだけど」
青年は頭をかいた。
「そう、見えるか」
「それ以外には見えぬ」
というのが同じ人間を主とする存在の返答だった。
「オルエンが施したアニーナ殿の守りは万全、アーレイド城にもスライ導師が術師を送ってくれているのだろう。ならばシーヴにラニタリスをつけると言うのは真っ当のようだが、小鳥を知るシーヴに気づかれぬようにしろとの指示ではたいした見張り役ができぬ」
エイルはラニタリスにそれを命じていた。小鳥が逆らうことはもちろんなく、ラニタリスはランティムにずっと張り付いている。
「ラニも、そう思ったかな」
それは肯定同然だった。
「あいつ、俺に言われた通りにしただけなのに」
青年はそっと息を吐く。
「正直、すげえ不安だ。あいつがイーファーにもたらした変化。あの野郎があのままでいないことにはリック師の魔除け飾りを賭けたっていいけどさ、それにしたって」
「変化」
〈塔〉は繰り返した。
「何も怖れることはなかろう。お前はラニタリスの主なのだぞ」
「主は絶対、だって?」
エイルがふっと笑うと〈塔〉は――どうやってか――憤慨した声を出す。
「いい加減にしないか、エイル。お前は初めて私のもとにきたときから、いや、ラニタリスを連れてきたときから比べてずっと魔術の理をよく知り、学び、身につけた。だと言うのに」
「『ただのエイルだと言い張るのはやめろ』」
どこか皮肉混じりの声音で青年魔術師は言った。
「言おうか、〈塔〉。逆だよ。お前は勘違いしてる。俺が怖れるのは何も、ラニが『駆け出しで若輩の』俺を操ることじゃない」
エイルは静かに印のようなものを切った。それはでたらめの動きだったが、偶然にも彼を意中とする〈名なき運命の女神〉のそれによく似ていた。
「俺の力不足でラニを操れなくなること、だよ」
エイルは静かに言った。そのふたつは同じことのようでありながら、違っていた。エイルは、そして〈塔〉も、それを知る。




