03 殊勝ではありませんか
紙の上にさらさらと走らせていた筆を置くと、若者は息を吐いて左方に置かれている陶杯にすっと手を伸ばし、そこで顔をしかめた。
こう言った何気ない動作がいちばん、うっかりしがちだ。
左の首筋に残った傷跡は完全にふさがっているが、まだ引きつる感じがある。激しい運動は禁じられたままだし、シーヴ自身も気をつけているが、ふと腕を伸ばすようなほとんど無意識の動作はなかなか律することができない。
「全く」
情けない、と口に出すとますます情けない気分になりそうで、ランティム伯爵はそこで言葉をとめた。
売られた喧嘩であっても買わないように心がけようと思ったのは二年ほど前のことだが、ここまで押し売りされたのは初めてである。
死にかけた経験は前にもあるものの、あのときは不思議な癒しに救われたためか、そのような状態に陥ったという実感は薄い。
しかし此度はそれどころではない。実感はありすぎるほど、今度こそはラファランの導きに会うのだと思ったものだ。
それが運よく、生きた。生き延びた。
誰か、暖かい手が彼を引っ張り上げてくれたような感覚が残る。誰かが彼を呼び、ラ・ムールの大河から引き離してくれたような。
どこか懐かしいような、慕わしい存在が近くにいた。
レ=ザラだろうか、という感じがしたが、妻は夫がそこまでの危機に遭ったことを知らなかった。隠し続けることは不可能であるし、「生死をさまよった」までは告げないとしても、首筋の傷跡など不穏この上なく、黙っていることもできない。無論、いまでは彼の妻であるレ=ザラも知っている。
と言っても、彼女が知るのはこうだ。
リャカラーダ伯爵は城内に入り込んだ賊に不意を突かれ――大筋では、その通りだ――それと応戦して勇敢な兵士がひとり死んだと。
そういうことになっていた。
若兵ラグンの死を聞いたシーヴは自らの不面目を隠すことはせず、ラグンの勇気と忠誠を公式に称えた。実際には若者は「敵」の姿を見ることもなく、剣の柄に手を触れることもないままで魔術による死を迎え入れていたのだが、そうしたことは関係がない。実際、ラグンは主を守るためにその部屋の扉を守っていたのである。
ただここにひとつ、シーヴの認識と事実との間には齟齬があった。
彼は、ラグンに凶刃を振るったのは自身に傷を負わせた中年術師だと思っている。イーファーのことも、エイルのことも知らないでいる。伯爵の執務長はエイルの望みを聞き入れ、それを巧くすり替えて伝えたからだ。
シーヴは、自身が昏睡状態にあったときの出来事を知らぬまま。
もしシーヴが――エイルのことは知らずとも――眠り続ける自身を守るために戸についていたラグンが死んだと知ったなら、彼はラグンが自分の負傷とほぼ同時に死んだと考えるよりも、強い責を感じただろう。
エイルは、シーヴがそう思うことを避けようとした。それは、上手く働いていた。シーヴは領主として兵士の死に立派に対応し、必要以上の悔恨を抱え込まずに済んでいた。
ともあれこのような事情で、目を覚ましたあとでシーヴが最初にやったことはと言うと、魔術師協会への照会だった。
周囲がいくら眠らせようとしても、彼は「アーレイドのエイル術師は生きている」という報告を受け取るまで、意地でも床につこうとはしなかった。
やはり偽物屋のもたらす情報など偽物だと、彼は安堵の息をつき、それから柄にもなく神に感謝をした。
ヴォイドは、主が「エイルは死んだ」と聞かされたなど知らずにいたが、余計なことは言わなかった。嵐の夜に起きた若兵の死だけではない、エイル自身の訪問も含めて知らせぬことがかの青年の望みであると判っていたのである。
「少しよろしいですか、リャカラーダ様」
そのヴォイドが領主の部屋を訪れた。
いいも悪いもない。ヴォイドは主人が否と言ったところで好きにするのだし、だいたい、いまのシーヴは実に弱い立場にいる。「賊」をあろうことか執務室に招き入れ、凶刃を振るわれて死の淵をさまよったのだ。
通常であれば「被害者」として同情されるところであるが、相手がヴォイドである場合、結論はやはり「悪いのはリャカラーダ様」になる。
いつもならばのらりくらりとやる反論やごまかしも、今回ばかりは出てこなかった。危険な相手であることは承知だったのだ。まさかあのような手段にまで出るとは思わなかったものの、それは自身の失態である。その自覚があるいま、とても、冗談ですら、ヴォイドには逆らえなかった。
「お話がございます」
「何でもしてくれ」
ランティム伯爵はひらひらと手を振った。
「アルセントのことなのですが」
「どうかしたか」
思いがけない名前にシーヴは片眉を上げた。執務長たるヴォイドが彼の部下であるアルセントについて、主に意見を求めることはない。何か問題があれば彼らの間で片をつける、そのはずだからだ。
「この職を退きたいそうです」
「──そう、か」
伯爵はきゅっと眉をひそめた。
「かなり勝手を言って振り回したからな。加えて今回の負傷だ。ついていけないと思われても仕方がない、か」
「どうされたんです」
ヴォイドが今度は片眉を上げる番だ。
「ずいぶんと殊勝ではありませんか」
「とある男は」
シーヴはふと窓の外を見た。
「口先ばかり反省をしても、行動が伴わなければ意味がないと俺に言った。まるでお前みたいなことを言う、と俺は茶化したが、成程、俺がやっているのは繰り返しで成長がないのだな、と気づいたよ。成人前の子供であればともかく、『今後を見守っていこう』と心を広く持つにもそろそろ難しい年齢だ」
王子は肩をすくめた。
「俺はシャムレイを離れた。ウーレを砂漠に残してきた。これまでは俺が去ってきた。だが、俺とて去られることはある」
すっと見やった東の方にあるのは、彼の故郷か砂漠の民の集落か、はたまた石造りの塔であったか。
「去られたということは、俺がそれだけの人間だということだ。思っていた以上にきついが、仕方ない」
呟くようにシーヴは言った。ヴォイドはしばらく黙っていたが、数秒経つとゆっくり口を開く。
「おひとつだけ、よろしいですか」
「何だ」
「一見、謙虚のようでいて酷く尊大なことを仰っていると、お気づきですか」
「何だと?」
執務長の淡々とした一言に、領主は眉をひそめた。
「離れてきたと言う、シャムレイ、ウーレ。それはあなたにとって『それだけのもの』と?」
「そんなはずがあるか。俺は――」
そこで、シーヴは言葉を止めた。
「ええ、そうです」
ヴォイドはうなずいた。
「離れる側にも痛みはある。そのことも、お忘れなきよう」
シーヴは黙り、口のなかで何か呟いた。それは謝罪の言葉であるようだった。目前のヴォイドに対するものか、はたまた、離れた相手に対するものだったろうか。
「しかしそれはアルセントの話なのですか。それだけでもないようですが」
「何。独り言だと思え」
シーヴは東方を見据えたままで言った。
「ずいぶんと長い独り言でしたね。ではそれはあなたご自身の呟きでけっこう。何か勘違いをされているようですから、リャカラーダ様、早めに申し上げておきますが」
ヴォイドは咳払いをした。
「アルセントは、よりによってこう言ったのですよ。『執務官という業務範囲ではリャカラーダ様のお手伝いに限界がある。必要とあらば私はランティムを離れ、彼の目となれるようにありたい』とね」
「何」
その言葉の意味に気づいて、シーヴは視線をヴォイドに戻すと目をしばたたいた。
「――いいのか」
「何がです」
ヴォイドは淡々と返した。
「有能な執務官を解任してよいのかと言っているんだ、執務長」
「領主当人にふらつかれるよりどれだけましか知れませんね」
第一侍従は鼻を鳴らした。「領主当人」は苦笑するしかない。




