10 知っているのは
南の春は遅い。
雪解けの香りはしてきたものの、日の当たりにくいところでは冬が頑張っている。晴れた昼間は暖かいと感じることもあるが、朝夕はまだ強く冷え、どこの家でも暖炉に火を入れていた。
カーディル城もその例に洩れない。
寒い地方の建物は気密性が高く、熱を逃さぬ作りになっているから、屋内にさえいれば寒くてどうしようもないということは滅多になかった。外出用の防寒着はともかく、室内での格好は中心部の住民よりも薄着であるようなことも珍しくない。
その朝、城の主は気軽な服装で、いつものように瓏草を手にしながら執務官の用意した書類をめくっていた。
「ミレイン」
ゼレットは彼の署名した書類を整理している執務官に声をかけた。
「この栞は、何だ」
「ああ、それは」
薄化粧をした三十過ぎほどの女性執務官は、伯爵気に入りの愛人――のひとり――だが、執務中はそんな様子を露ほども見せず、それどころか容赦なかった。
「閣下のお気に召さず、ろくに読まれずに素通ししそうな事項でしたから。飛ばされないように、敢えてしるしを」
「む」
ゼレットは口髭を歪めてその頁を開き、ざっと目を通す。
「魔術師協会だと? 使いとは、何のことだ?」
「やっぱり、ソーン様のお話をろくにお聞きになっていなかったのですわね」
呆れたようにミレインは言った。ゼレットは片眉を上げる。
「何を言う。俺はちゃんと聞いていた。あいつはいまだに俺に遠慮をするからな、魔術の話などしたがらなかったのだろう。気の毒に」
「それはどちらかと言えば私の台詞です。ソーン様はとてもよくやっていらっしゃるのに、閣下はすぐに意地悪を仰るのですから」
「俺がどのような意地悪を言った」
ゼレットは書類から目を離すと面白そうに問うた。
「ソーン様のご報告をいちいちいちいち茶化しますわね」
「何。そのようなことは」
「していらっしゃいます。たとえ無自覚でいらしても。彼はエイルとは違いますのよ。閣下のお言葉をそれはそれは全て本気に取るのですから、ほどほどに」
「俺は常に本気だと、何度言えばいい?」
「ソーン様以外にでしたらお好きなだけどうぞ。誰も真剣に取り合いませんから」
「ふむ」
ゼレットは口髭を撫でた。
「そうか。ソーンの父親はずいぶんと融通の利かない教育をしたのだな。まあ、再教育はいまからでも遅くなかろう」
「悔しいんですの?」
「何? 俺が何を悔しがる」
「ソーン様がクラス儀式長官によく似ておいでのことですわ、もちろん」
ミレインはさらっと言った。ゼレットはうなる。
「悔しいと。む、そうなのかもしれんな。あやつは顔も口も巧くないくせに、ティセアをかっ拐いおった」
「ソーン様の母君ですか」
「そうだ。よい女だが、近頃は陛下が彼女を気に入っていらしてな、クラスは戦々恐々だ。俺は陛下と争うつもりなどはない故、静かに身を引くが」
「それはつまり、儀式長官とならば争うおつもり、ということですわね。ソーン様にご関係を知られたらことですわよ」
「俺もティセアも、そのような過ちはせぬ」
その台詞は「火遊びなどしていない」とも取れようが、この場合は「ばれるようなヘマはしない」であることは〈真夏の太陽〉よりも明らかである。ミレインはやれやれと首を振った。
実際のところ、ティセアとゼレットの関係は彼女がクラス夫人となる以前のものだ。それ以降も皆無であったとは言えないものの、口で言うほど頻繁ではないのは、ミレインもよく知っていた。これはミレイン相手だから言うような軽口に過ぎない。
「改めて説明をいたしますと、閣下がギーセス様と遊んでいらっしゃる間」
「あやつのところに行ったのではない、エイルと俺の絆が呼び寄せたのだ」
「何でもお好きに。タジャスからのお帰りの間になりましょうか、協会から問い合わせがあったのです」
ようやく執務官は話をそこに戻すことができた。
「初耳だ」
「嘘ですわ。ソーン様をからかうことに忙しくされて、肝心の中身を聞こうとされなかっただけ」
きっぱりと言うミレインにゼレットは反論できなかった。
「協会は言ってきたのです。――閣下が保有している魔法の品について訊きたいと」
「ほう?」
ゼレットは片眉を上げた。
「俺は、そんなものを保有しておったかな?」
「閣下」
ミレインは苦笑した。
「恍けていると、取られますわよ」
「心当たりはあるが、あれは魔力があると言わんのだろう。ただの石だ」
ゼレットは気軽に言うと肩をすくめたが、それは協会の「問い合わせ」を軽く見るのではなく、むしろ気にしたためだった。
「あれはこの城のものにして、そうではない」
伯爵は短くなった瓏草を小皿に押し付けて消すと次の一本を取り出し、ミレインにも差し出した。執務官は礼の仕草をしてそれを受け取る。
「協会が、あれについて訊きたいと。いまさら、何故だ」
その声にはわずかに警戒の響きが混ざる。
「二年前の出来事とは関係がなさそうですわ。ここ半月の話ですもの」
「半月だと?」
「ええ。『閣下がお帰りになる間』と申し上げましたでしょう。それくらいの時機になるはずです。協会が『城にある魔法の品が力を発した』と主張しているのは」
「何を戯けたことを」
ゼレットは煙を吐き出した。
「あれは眠っておる。次の〈変異〉の年までな。そのはずだ」
「知りませんわ。閣下以上にあの玉について知る者などいないのですから」
「俺も、何も知らんな」
伯爵は簡単に答えた。
「そして知っているのはエイルだけということになる」
ゼレットは不思議な感慨を浮かべて遠く──大砂漠だろうか──を見るようにした。
「彼は彼で、何も知らないと言うのではありませんの」
自身が持つ瓏草の煙を前に、執務官は首を傾げた。
「ならば」
伯爵はにやりとした。
「素直になるまで、帰さぬだけだ」
エイルが聞けば天を仰いで「この人をどうにかしてください」と神に祈りでも捧げるところだが、ミレインはそうする代わりに軽く肩をすくめた。お好きになさいませ、というところだ。
ゼレットの「愛人」であれば、伯爵お気に入りの青年などは恋敵と考えてもおかしくない訳だが、ミレインは、いや彼女に限らず、ゼレットの気に入りはみなその辺りに鷹揚だ。ほかの女でも男でも、気にしているようではこの伯爵の相手は務まらない。
もとより、ミレインはエイルをよく知る。彼女が彼を厭うことはなかった。
「それで、協会は我が城の翡翠を見たいと言うのか」
「翡翠とは言いませんでした。そこまでは判らないのでしょう。ただ、使いを送る故、都合のよい日程を知らせろとだけ」
「『送る』か。『送ってもよいか』ではないのだな」
ゼレットは唇を歪めた。
「魔術師どもめ」
概して「魔術師」たちは権威を気にしない。ゼレットは王の権威や自身の階級を笠に着る性質ではなかったが、礼を尽くされることにはそれでもやはり慣れている。ウェレスの王城ならば別だが、このカーディルであれば誰もが彼に「お伺いを立てる」のが普通だ。ゼレットはそうされなかったからと言って罰するようなことはしないが、そもそも「そうされない」こと自体が滅多にない。
しかしこの場合、無礼が気に入らないのではない。魔術師だというだけでも気に入らないのに無礼であるとは何ごとだ、というところだ。
もちろん、いくら魔術師であってもエイルだけは別だった。伯爵にとっては魔術師である以前に、青年は「エイル」なのだ。その反応は西の騎士や東の王子同様に青年魔術師を安心させ、彼の信頼を呼ぶ態度であったが、それ以外では生憎と言うのかゼレットはエイルの警戒対象である。
「閣下はそれについての返答を放置していたと言うことになります。今日の書状はつまり、督促ですわね」
言うとミレインは瓏草を小皿に押しつけて火を消した。
「成程な。主張は判った。だが、協会なんぞにあれを観察させるつもりはない」
「では、お断りになると。承知しました、返答を用意しておきます」
「待て」
だがゼレットは片手を上げた。
「確認しておこう。いつ、だと?」
「最初の書状は、五日前。力がどうのと言うのはその前日です」
「ふむ」
ゼレットは唇に親指を当てた。
「よし、話を聞こう」
「協会にですか?」
ミレインは驚いて言った。
「いいや」
伯爵はにっと笑う。
「もちろん、エイルにだ」
これは非常によい口実だ、と伯爵は満足そうに言った。




