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風謡いの首飾り  作者: 一枝 唯
第7話 決断の代償 第1章

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05 何を望もうと言うのです

 魔術師協会(リート・ディル)の図書の間は、静かである。

 幾つも設置されている長卓は、黒く塗られただけの無味乾燥なものだ。

 だが、ここにやってくる者たちは華やかさなど全く求めていないのだから、敷き布一枚飾られていない光景に不満を持つことなどなかった。

 ふと、彼の向かいに誰かが座る気配があった。

 黒ローブを身につけた若者――と言っても、協会内では魔術師はみなそれを着用しなければならなかったが――はすっと顔を上げる。

 その右半分は酷い傷に覆われており、それを目にすればたいていのものはぎょっとしそうだった。

 しかし、驚いたのは相手ではなく、傷跡を持つウェンズの方だった。思いがけない相手がそこにいたのである。

「これは、お久しぶりです。アロダ術師」

 ウェンズはそう言うと、四十過ぎほどに見える、少し太めの魔術師に会釈をした。

 青年は先ほどまで、この男について考えていた。エイルに話を聞いた彼は宮廷魔術師と話をしたいと思っていたものの、公爵の地位にもあるローデンは緊急会議の最中で彼の伝言は届かぬままだった。ウェンズは、すぐに連絡をしてもらえるように手はずと整えたあとで協会に戻り、調べものを続けていたのである。

 それが、当の相手が現れた。まるで、それを知っているかのように。

「ご無沙汰していましたね、ヒサラ殿」

 アロダと呼ばれた魔術師はウェンズを名で呼ぶと、感心したように首を振った。

「いやはや、あれから何度も顔を合わせているんで、いまさらですけどね。せっかくですので言っておきます。あなたが生きていて本当によかったですよ。将来性のある若者があのような出来事に巻き込まれて死んでしまえば、エディスン協会の損失ですからねえ」

「おかげさまで」

 ウェンズはまた、わずかに会釈した。

「どこかの魔術師殿の手引きで馬鹿げた信仰の餌食になるところでしたが。神は意外にも正義を見ているというところでしょうか」

 敬虔なのか不遜なのか判らない言い方をして、ウェンズは相手を見た。変わらぬ口調に込められた皮肉に、アロダは少し笑う。

「おや。それはまた、協会で話題にしにくい話題という辺りで」

 そんなふうに言うとアロダは親指をくいっと後方に向けた。

「どうです、ちょっと出ませんか」

「あなたと逢い引き(ラウン)ですか? あまり楽しくはなさそうですね」

「そりゃ、ヒサラ殿なら若くて可愛い女の子引く手あまたでしょうけど。たまには、中年のおじさんの話にもつき合ってください」

「何のために?」

「おや」

 ヒサラが淡々と問えば、アロダは片眉を上げる。

「まさか怖い(・・)んじゃないでしょうね」

 その言葉にウェンズは肩をすくめた。

「挑発のおつもりなら、乗りませんよ。見てお判りになりませんか。私は忙しいんです」

「〈風神祭(イルセンデル)〉以来、ずっと忙しくしているようじゃありませんか。たまには太陽(リィキア)の下でのんびりしなさいよ」

「太陽と申されましても、もう、夜ですが」

「そうですか、そうですね。それじゃ、(ヴィリア・ルー)の下で、に訂正しましょう」

 アロダは引かなかった。ウェンズはじっとそれを見る。

「応じるまで、邪魔をし続ける気ですね」

「判りましたか」

「判ります。では、一カイだけ」

「はいはい、有難うございます」

 アロダはにこにこと言うと立ち上がり、ウェンズは本を閉じた。

 ふたりの魔術師が協会を出ると、エディスンの夜空は薄雲に覆われていた。生憎と月の女神(ヴィリア・ルー)はお休み中のようですね、などとアロダは呑気に言った。

「ひと雨きそうですな」

 アロダは鼻をくんと言わせて、空気中に雨の気配を嗅ぎ取るようにした。

「そろそろ雨季ですからね」

「あんまり湿気が多いと、傷口に影響がありませんか」

「そうでもないようです」

「そりゃよかった。この気候がつらいと言って南に下られたりしたら、エディスン協会の損失ですから」

 アロダはまた言った。

「ずいぶん、協会のためを思うようになったのですね」

 ウェンズはごく普通の口調で言ったが、それにたいそうな皮肉が込められていることはアロダには判っただろう。

「協会より面白かった生き物はどっか行っちまいました。生きてるのか死んでるのかも判りません。私はエディスンに恩はないからとっととこの暑苦しい北を去ってもいいんですが」

 太めの術師は肩をすくめる。

「私が去っても、エディスンの損失でしょう」

 その言い様に、思わずといった体でウェンズは口の片端を上げた。

「言っときますけど、慢心なんかしてませんよ。私ゃいまじゃローデン閣下の手駒ですから。閣下が南に下れと言えばはいはいと従いますが、特に言われないうちはエディスンのために穏当なる魔術師生活をする訳です。そうなれば、能力のある術師はひとりでも多い方がエディスンのためだ」

 アロダはさらさらと言った。

「ただ、あの人は私の顔を見たい訳じゃないですから、もしお暇をくださいと言ったら好きにさせてくれるかもしれませんねえ。でもつけた鎖は死んだって離さないでしょう」

 一旦言葉を切ってから中年術師は続ける。

「この場合、ローデン閣下が死んだって、じゃないですよ。鎖をつないだ先の私が死んだって、です。全く、怖い人を怒らせてしまいました」

「あなたがエディスンへやってきたのは、ここ数年でしたね」

「三年ほどですか」

「昔のことですから、私も詳しい話は知りません。ですが、ローデン殿が〈混沌の術師〉と呼ばれていたのは何も協会を引っかき回したからだけではない」

「異界との関わりがあったためでしょう。知ってますよ。身を以て体験いたしました」

「それは」

 ウェンズは片眉を上げた。

「興味深い」

「知りたければお話ししてもいいですよ。ですが、先に私の話につき合ってください」

 街路の脇には、エディスンの強い陽射しを遮って休むことができるよう、木陰に長椅子が設置された場所が幾つもある。

 ただ太陽はとうに西の方に沈んでいるのと、その程度の木傘では突然の豪雨を遮りはしないのと、黒ローブのふたり組になど誰も近寄らないのとで、月も星も雲に隠れた空の下でそれを利用しているのは彼らだけだった。

「調べものは、進んでいますか」

 話題を改めるように、アロダはそんなことを言った。

「何でも、協会長(ギディラス)のご指示で、女の子を泣かせて魔術書と逢い引きしてばかりだとか」

「幸か不幸か、この傷跡を見て寄ってくる女性はいませんが」

「もったいないですね。色男が台無しです。何でしたら、治すお手伝いをしましょうか」

「その気になれば治せます。このままでいるのは、自省のため」

「まるで神官ですな、禁欲的というやつだ」

そう(アレイス)、神官のように」

 ヒサラは繰り返すとすっとアロダを見た。

「私は、気づくべきでした。あなたが導師の道を避けたのは、怠惰や享楽性のためではない、れっきとした目的があったのだと」

「目的なんて」

 アロダは肩をすくめる。

「私が望むのは、ちょっとした生活の向上くらいですよ。刺激ある日々。いまではローデン閣下のおかげで、毎日が刺激的です。目覚めるたびに、昨夜も死なずに済んだ喜びなんてものが湧いてきますから」

「それだけローデン術師にしっかりと縛られておきながら、何を望もうと言うのです」

「望みなんて」

 アロダは先と似たような言い方をした。

「ちょっとした興味ですね。好奇心。知識欲と言ったっていい」

「私に、あなたの好奇心を満たす義務はありません」

 ウェンズは計るようにアロダを見た。

 彼は知っている。エディスンの協会に属するこの術師が、〈風読みの冠〉にまつわる出来事の間で果たした「役割」のこと。そして、いまはまた違う何かを考えて、或いは企んでいることも。


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