04 大事にしてやってくれ
「俺さ」
青年はなおも続ける。
「いつかお前は絶対刺されるって思ってたけど」
その顔には安堵のための笑みが浮かんだままだ。
「間違っても、予言なんかじゃなかったからな。それに、呪いでも」
「本当に、夢じゃないのか。お前、なんだな」
だがシーヴはエイルの――いささか性質の悪い――冗談には反応せず、かすかな声で先と同じようなことを繰り返した。まさかエイルの声が聞こえていないのか、と彼は不安になる。
「……平気か?」
「ああ。少し、うまく動けぬようだが」
わずかに頬が動いた。笑おうとしたのだろう。ちゃんと聞こえているようだ、とエイルは安堵した。
「あんま、喋るな。いま、ヴォイド殿がくるから」
王子が幼い頃は目付け役として、成長してからは第一侍従として、いまでは領主の片腕としてリャカラーダに仕える男は、彼を息子のように思っている。医師以上に何もできないのに、すぐ近くで仮眠を取っているらしい。
ランティム執務長にひとりのランティム兵の死について話をしなければならないと思うと、エイルの胸は痛んだ。
「眠れよ、いまはさ」
だが、ラグンの主にそれを伝えるべきときは、いまではない。エイルはただ、友にそう言った。布の上から腹の辺りを優しく叩いて立ち上がる。
「待て」
弱い声で制止がかかった。
「行くな。もう、二度と」
それにはエイルは苦笑を覚えた。何とも、らしくないような――。
「会いたかった」
「シーヴ」
その声にどこか違和感のようなものを覚えて、エイルは友を呼んだ。シーヴは、自分に話しかけているのか? 何だか違うような気がする。
いったいシーヴは、誰を引き止めたつもりなのだ?
「行くな。――エイラ」
エイルはむせるかと思った。この状態にありながらこの男はこんな性質の悪い冗談を言えるのか、と青年は罵倒の言葉を準備し、思い切り息を吸ってから――息をとめた。
(本気、か)
そう、気づいた。
少しだけ驚いた。友人がいまでも〈翡翠の娘〉を心にかけること。
だが、それは当然であるのかもしれない。
シーヴが長年求め、探し当てた「運命の女」。
ぼんやりとしているであろう砂漠の若者の視界に映るのは、その姿なのか。
エイルは友をじっと見つめ、躊躇いがちに口を開いた。
「――いいや、シーヴ。彼女は、いない。お前はそれを知ってるよ」
エイルは砂漠の若者が抗いきれぬ眠気にまぶたを閉ざしていくのを見た。
「彼女はいない。でもお前のなかには、いまでもいるんだな」
呟きながら彼はシーヴの頬に手を触れた。温かい。大丈夫、ラファランは砂漠の子を冥界へと導くことをやめた。
「参ったな、どうすりゃいいんだ」
エイルは自らの額に手を当てる。
「クラーナの言う通り、俺がいてもなくても同じように無茶やるなら、ついてた方がいいのかとも思ったのに」
そっと友人の黒い髪に触れ、エイルはその手を引っ込めた。
「やっぱ、駄目だな。お前は、俺といて気ままな放浪を思い出すんじゃなかった。彼女を……思い出してたんだ、な」
不思議だった。
からかうように言われたのであれば、腹が立つだろう。だが、そんな気持ちは湧かない。エイルはただ、不思議な気分だった。
「有難うよ」
彼はそう言った。
「覚えてて、くれてるんだな。彼女がお前の前に姿を現すことはもうないけどさ、いるんだな。お前の、ここにはさ」
そっと、友人の胸の辺りを指し示す。
「もしかしてお前にとっちゃ、『エイル』はエイラの余波みたいな……もんだったのかな。何だか……不思議だよ」
彼は思ったことを口にした。
エイルは、エイルにとってシーヴが「リャカラーダという面を持つシーヴ」であるように、シーヴにとっての自分は「エイラという面を持っていたエイル」だろうと考えていた。
だが、それは逆だったのか。
「もしかしたら、クラーナとオルエンの間にあるものと同じなのかな」
エイルはふとそんなふうに思った。
「オルエンはオルエンだけど、クラーナの知ってる姿じゃないだろ。そんなふうに……俺の方じゃもちろん思いもしなかったけど、お前は、違ったのかな」
あれからずっと、砂漠の王子のなかにいたのは、エイラだった。
エイルよりも?
それは、判らない。シーヴ自身も判らないだろう。
「大事にしてやってくれ。エイラのこと」
ただ彼は、そんなふうに、言った。
「ま、ついででいいや。たまには、エイルの方も思い出してくれよ」
「それって」
ラニタリスが背後からそっと神妙な声を出した。
「やっぱり、ワカレルってこと?」
「きたことを知られっちまったんなら、仕方ない、悪かったって謝ってさ、前みたいに時折訪れることにしてもいいかなって、少し思った。でも」
エイルは体力を失ったシーヴが睡魔に逆らえずに眠りについたのを――今度は、正常で穏やかで、深い寝息を立てているのを見つめながら続けた。
「幸か不幸か、どっちかな。こいつはたぶん、目覚めたときには何も覚えちゃいないだろう。覚えてても、夢だと思うさ。ヴォイド殿には話をするけど、うまく言い含めてもらう。――ラグンの死の責任は、逃れられない。シーヴに対してそれを負いたくないと言うんじゃないんだ」
「シーヴに、負わせたくないんでしょ。セキニン」
「そうだ」
ラニタリスが言い当てたことに少し驚きながらもエイルはうなずいた。
「てめえの怪我に関しちゃ、自業自得だ。ま、俺のせいも多分にはあるけど、シーヴには避ける選択肢もあった。でも、ラグンに対しては、シーヴにはかけらも責任はない。あるのは、俺だけだ」
「何言ってんのよ」
子供は鼻を鳴らした。
「悪いのは、イーファーじゃないの」
「まあ、そうだけどな」
確かにその命を奪ったのはイーファーだ。だが、だからと言ってエイルは自身に責がないとは思わなかった。
たとえ、誰が許しても、彼は負う。負うべきだと、思う。
黒いローブを心にまとうかのように、この理不尽な死を背負い続けるべきだと。
それは、たとえばイーファーに復讐をするといったような意味ではない。もしイーファーが今後エイルの前に二度と顔を見せなかったとしても、エイルがそのために呪術師を追うということではない。
ただ、負う。
彼が引き寄せたものを。
「ラニ、お前は戻ってろ」
エイルは窓の外を指した。子供はその指の先を見てから、未練ありげにシーヴを見る。釣られるようにエイルも見た。
「また会えて、よかったよ」
エイルは言った。
「あのまんまじゃ、やっぱきっついもんな。お前は今日のこと、夢だと思ってもさ、少しはすっきりするんじゃないか。……しないかな。判んねえけど」
空いている片手で彼は頭をかいた。
「行くよ、もう。ヴォイド殿と話をしなきゃ」
あのときも、そしていまも一方的に去ることにいささか気が咎めながら、しかしエイルは心を決めた。いつまでもこうしていても、仕方がない。
「……しっかりな」
その言葉を最後に、エイルは友人の眠る寝台に背を向けた。
ずきん、ずきん、と痛むのは数々の傷口か、それとも彼の心であったろうか。
エイルをして「稀なる術師となるであろう」と言ったのはアーレイド魔術師協会の導師スライである。
だがスライとて予見によって青年の未来を読んだのではない。彼は身に備わる能力で感じ取ったものを口にしただけだ。
稀なる術師。
魔力が強いだの、大魔術師になるだのと言うのではなく。
偶然を引き寄せるというのが強き星の真骨頂であると言ったのはエディスンの〈星読み〉の術師ローデンだった。
稀なるものを引き寄せる力、それとも定め。
六十年に一度の運命を担った少年は、〈変異〉の年の終わりにそれから逃れたものと考えた。
だが、そうではない。
かの一年間における使命こそ済んだものと言えよう。だがあれは、あれこそが魔術師エイルの〈初覚え〉、最初の一歩に等しかった。
あれは彼のはじまりだった。
――しかし、エイルはまだそれを知らぬ。
彼が知るのは、魔術師たることを認め、誰のためだとしても魔力を積極的に操るようになってきた自分。
もう「駆け出し」という段階は過ぎた。その成長は一足飛びで、ラニタリスが成長をするに似た。
望むも望まぬもなく。
彼は〈塔〉と魔鳥の主で、もはや「駆け出し」ではない魔術師。エイルは、それを知る。
だが知らぬ。逃れ得ぬ運命はまだ、激しく渦を巻いていること。
いまだ、嵐は終わらぬこと。




