03 夢じゃ、なかったんだな
エイルはゆっくりと立った。
「ラニ」
「何、なに何っ」
「お前……何であんなこと、知ってた」
「あんなこと、って?」
「トルーヴ。ラギータ家。お前は知らないはずだ」
「ん? 言ったよね、シーヴを見たよって。おんなじように、イーファーだっけ? あいつも見たの。何か見えたから、そのまま言っただけ」
何ということもないように子供は言った。
「ああっ、たいへん、エイルっ」
「何だっ?」
泡を食ったような声にエイルはぱっと警戒した。
「血! いっぱい流れてる! 早くチリョウしなきゃ、怪我しちゃう!」
「……いや、この状態を『怪我してる』と言うんだ」
エイルの顔に笑みが、浮かんだ。
少し苦いそれは、しかし、何かを否定するものではない。
彼は認めている。知っている。
自分が為したこと。使い魔が為したこと。
ラニタリスの主であるということは、ラニタリスの力を持つのだと言うこと。
彼がそれを命じたのだ。
「シーヴは。どうだ」
その思いを抑え、彼は問うた。
「暗いとこからは帰ってきたよ。でも、まだイシキモウロウってとこみたい。また、目ぇ閉じちゃったよ」
「――アルセントは」
「誰?」
それには答えず、エイルは無言で歩を進めると、先に執務官の青年が姿を消した扉をそっと開けた。
ぎくりとする。
暗い廊下の壁によりかかる、ひとつの身体。
そこで眠り込んでしまったような体勢の若者が、健やかな夢を見ているのではなく、冥界の導き手に連れ去られていること――死んでいることは、呼吸や鼓動を確認しなくても明らかだった。
「俺のせいだ」
エイルは唇をかみしめた。
「アルセント。済まない。謝っても何にもならない。でも」
本当に済まない、と彼は言った。
シーヴの身に起きたことは、エイルに原因があっても、シーヴ自身が招いたことでもある。だが、アルセントは。
意識のない領主に付き添っていた彼のもとに呪術師を呼び寄せたのはほかでもない、エイルだ。
「アルセント」
彼は、命を失った肉体の脇にしゃがみこんだ。
「――何ですか」
「わあ!」
背後から聞こえた返答に、エイルはイーファーが不意に現れたときよりも心臓を大きく鳴らして悲鳴を上げた。
「いったい何が……それは、ラグンですか?」
廊下の少し先、すっと声色を固くしてエイルに近寄り、彼の隣に同じようにして身をかがめたのは、ほかでもない、アルセント青年だ。
「ラグン! どうした!」
青年執務官は手にしていた盆を投げ捨てた。がちゃん、と派手な音が静かな廊下に響く。
「ラグン?」
「死んで……います。いったい……」
執務官は遺体に触れると、困惑した声を出した。
「ラグン?」
エイルは馬鹿みたいに繰り返した。
「アルセント、これ、お前じゃないのか?」
「当たり前じゃないですか」
呆然としたエイルは間の抜けたことを言ったが、執務官は真面目に返した。
「何があったんです、エイル殿。怪我を……されている」
「それが」
エイルもまた、固い声を出した。
「魔術師が」
その言葉にアルセントの顔も厳しくなった。
「リャカラーダ様を傷つけた輩ですか」
「それとは違う。でも、同じ一味だ」
「その術師が、ラグンを」
「……そうだ」
エイルは苦々しくうなずいた。
「済まない。俺の、せいだ」
それがアルセントでなかった、ということに安堵をした。だが、見も知らないとは言え、若者がひとり命を落としたことに変わりはない。親しい友と、親しくなりかけた相手が無事だったからと言って、彼らでなければどうでもいいと思うほどの薄情さは、エイルにはなかった。
「閣下は」
「無事だ」
「ならば」
アルセントは息を吐いた。
「ラグンは……無駄死にではない」
その言葉にエイルは唇を噛んだ。
無駄死にではない? エイルがいなければ、イーファーはここへやってこなかっただろう。そうすれば、ラグンという兵士が呪術師の手の一振りで殺されることになど、ならなかったのに?
「その術師はもう去ったのですね」
エイルがランティム伯爵のもとを離れているということはそういうことであろうと、アルセントは確認をした。エイルは認める。
「危険は去った。とりあえずはな。でも……」
済まない、と彼はまた言った。アルセントは首を振る。
「起きたことを悔やんでも仕方がありません。当面の危難は去った。それならば、次のことです。私はヴォイド殿を起こして次第をお話しします。エイル殿、あなたも話をして下さいますか」
「それは、もちろん」
話さなければならない。彼の責任であると言うことを。
「あなたの治療も必要ですね。医師も起こしましょう。すぐに参ります故、いましばらく我が閣下をお願いいたします」
有能な執務官はラグンに向けて冥界神コズディムの印を切ると、ぱっと立ち上がった。エイルも同様にする。アルセントはそれ以上余計なことは何も言わずにヴォイドのいるらしい部屋へ向かう。エイルはそれを見送りかけ、首を振って――ラグンを見た。
「俺が塔でおとなしくしてりゃ、こんなことにはならなかった」
そう呟くと、じっと待っていた子供がそっと部屋のなかから顔を出した。
「でも、そしたら、シーヴが暗いとこに行っちゃったかもだよ」
小声で、ラニタリスはそう言う。
「シーヴが起きたの、やっぱり、エイルが呼んだからだもん」
それは、きつい二律背反だった。友を救おうとしたために、若い命がひとつ失われた。
彼はただ黙って、ひたすらに哀悼の印を切った。何度も繰り返した。そうすることで、ラグンという、見たこともない、もしかしたら一度くらいは城のどこかで通りすがったことがあるかもしれないだけの若者を死なせたことへの詫び、その一片にでもなるのなら――。
彼はそんなふうに思っていた。もしかしたら、冥界神の神官が正規の弔いを行おうと姿を見せるまで、それをやりつづけたかもしれない。
誰であれ、どんな形であれ、自身が関わったために、人が死ぬ。
そのようなことは、痛すぎた。
「エイル! シーヴが」
ラニタリスの声が青年の手をとめた。エイルはほとんど無意識でラグンに謝罪の仕草をすると部屋に飛び込み、寝台に駆け寄った。
「シーヴ!」
傍らにひざまずいてその名を呼ぶ。黒い瞳がうっすらと開いている。
「……ああ、それじゃ、夢じゃなかったんだな」
「気づいたな、判るか、シーヴっ」
友人の顔をのぞき込めば、薄闇に目をこらすようにしながら黒い瞳の焦点がゆっくりとエイルに定まった。
「夢じゃ、なかったんだな」
砂漠の若者はまた言った。
「声がしたように思った……お前が、俺を呼ぶ」
「そうさ、当たりだよ、東の王子殿下」
エイルはほっとした顔でシーヴの手を――先とは反対側だ――布越しに叩いた。
「悪かったよ、酷いこと言って。でも、お前に手を引かせたかった。まあ結局、無駄な努力に終わったようだけどさ」
青年は少し興奮したように、話を続けた。
「俺さ、不思議な力は俺たちを助けてくれないって思った。でもさ、どうやら助けてくれたみたいなんだ。〈女王陛下〉も、けっこう粋な計らいするじゃないか?」
彼は少しにやりとした。
「ま、どうにも俺が頼りなくて、手出ししてくれたのかもしんないけどな」
「不思議な存在」が何を思うのかは判らない。こんなふうに、まるで「人間」のようにかつて関わったものを危惧するようなことはないような気もした。
だが、理由が何であろうと、力は貸された。それが事実だ。
エイルはただ、何の裏も考えず、そんなふうに思った。




