01 お前の望む通りには
だんっ――と大きな音がするのをエイルは他人事のように聞いていた。
相変わらず部屋は薄闇に覆われているのに、ちかちかと銀色の星が目前に瞬くのは、何だか奇妙な気分だった。
口内を切り、肩口を斬られ、右半身を擦りむいたあとは、どうやら床に頭を打ちつけたらしい。
エイルは顔をしかめながら籐製の敷物に手をついた。倒れている場合ではない。手探りで、落とした剣と杖を求め、杖だけに行き合った。
だが、奇妙な気分がしたのは、瞬く星のためだけではない。
殺られると、思ったのだ。思い切り剣を振り上げた体勢は、魔術師からすれば格好の標的なのだから。
イーファーがどのような術を使うつもりでいたのかは判らない。料理長トルスの研ぎ澄まされた包丁よりもすっぱりと肉を断つ〈風鎌〉や、いまであれば天空を荒らし回る雷 のおかげで威力を増す〈雷波〉や、ほかにどんな魔術でもそれとも呪術でも、エイルの心臓をとめるだけの力を持つ術を投げるつもりでいると、そう思ったのに。
生きている。
床に叩きつけられただけだ。
「かかりが、弱い」
気に入らぬ、というようなイーファーの声。
「どんな手段で我が術を歪ませ、威力を薄くした?」
エイルが頭を振ったのは、別にイーファーに答えようとした訳ではなく、ただ目の前をはっきりさせようとしたからだ。だが、呪術師にはそれは「判らない」または「答えてなんかやるか」というような回答に見えたようだった。
「何を持っている」
イーファーは長杖をくるっと回した。
「あのときの魔除けは、持たぬようなのに」
コリードの〈縛り〉からエイルを守った「あのときの魔除け」――リック師の赤い翡翠はシュアラのもとだ。「その代わりに」と言わんばかりに彼のところに降ってきた翡翠製の腕輪も、いまはクラーナのところにある。
エイルは床に座り込んだ状態のまま、目をしばたたいた。
持っていない。首飾りだろうが腕輪だろうが、魔除けになるようなものは、何も。
だが、これは、何だ?
エイルは身のうちにそれを感じていた。
遠く、アーレイド。
遠く、カーディル。
かつて彼と強く結びついていた、緑色の石。あの年が終わって以来、一度もその気配を感じたことのない――。
(いや、一度だけ)
(アーレイド城で、感じたな)
シュアラの胸元を飾る魔除けに「話しかけた」とき、彼はアーレイド城の翡翠石が彼を見ていたような、そんな奇妙な気分になった。
だが、それだけだ。気のせいだと思う程度の。
そしてこの二年間、こんなにはっきりとその気配を覚えたことは、ない。
何故、突然?
「……今度は」
弱々しい、声が、した。
「言うぞ……守ったと、な」
「シーヴ!」
それは確かに、砂漠の王子の声だった。
「俺、は……」
掠れる声で呟いたシーヴは身を起こそうとし、ちっとも言うことを聞かない自身の身体に罵り文句のようなものを吐いた。
「そのまま、横になってろ、後生だから!」
素直に言うことを聞いた訳ではないだろうが、実際、シーヴにはそれ以上何か喋る力すらないようだった。浅かった呼吸は荒い息使いに変わり、懸命に努力をするが、血を大量に失った肉体は容易に主の命令を聞かない。
『エイル!』
(ラニ、お前が何かしたのか)
『あのね、シーヴのこと、よく見たの。そしたら、いっぱい、シーヴから細い糸みたいなの出て。そのなかで、彼を助けれる糸を探したの』
(「助けられる」)
修正を施すのは無意識だ。
『いちばんはね、やっぱりエイルだったの。だから、エイルを助けれる、助けられる糸を探したの』
(よく、判らんが)
ラニタリスの説明はいまひとつ具体的でなかった。
(それで……翡翠に行き着いたってのか)
『ヴィエル? よく、判んない』
使い魔は主と同じような感想を洩らした。
『でも何か、チカラアルモノ、見つけた。あたしがそこに行くのにシュゴが気づいたけど、エイルとシーヴのためだって言ったら通してくれた』
(〈守護者〉)
エイルははっとなった。
(知られたのか、このこと)
『え? ううん、たぶん、シュゴたちはよく判ってないと思う。ああいうのって、ムイシキカだから』
ラニタリスはどこまで理解しているのか、どこから知識を得てきたのか判らないような言葉を連発した。
『でもね、シーヴはそれで目覚めたんじゃないよ。自分で、起きた』
その説明は判りやすかった。
『そしたらね、チカラアルモノもエイルを助けれた……られた』
(シーヴが目覚めて、翡翠が俺に――力を貸した?)
それは、彼のよく知る関係、覚えのある流れだった。同時に、もう二度と起こらないはずの。
(どうなってんだ)
エイルは困惑したが、それを追及している余裕はない。
こういった〈心の声〉は、現実に声を出して話すよりもずっと短時間で済むものだから、エイルがラニタリスからそれだけの説明を受けても、数秒が経ったかどうかというところである。
「それは、何だ」
イーファーは静かに言った。
「遠くで、お前に何かが反応したな。何かが、ふたつ。お前に力を貸した。その王子が目覚めた途端。奇妙な絆だ」
呪術師はエイルとシーヴを見比べた。
「愛欲の結びつきだけでは、ないようだな」
「友情で何が悪いんだ、友情で!」
シーヴが意識を取り戻したことに、エイルは威勢を取り戻した。
「では、ランティム伯爵がお前の魔除けか。その理は判らぬが、為すべきことはよく判る。何も、変わらないがな」
くっとイーファーは笑うような声がした。
「お前に言うことを聞かせるためには、ランティム伯爵には死んでもらうのがいちばんだ、ということは変わらない」
「さ」
させるか、と叫んで立ち上がろうとした。頭に痛みが走る。
ヴィエル。
違う。
〈変異〉のときの、不可思議な力がエイルに舞い戻った訳ではない。
何故だか翡翠は彼を手助けて守ったが、それだけだ。力を与えた訳では、ない。
「こんの、人間のツラぁかぶった氷鬼め」
エイルは頭痛を無視して、キッとイーファーを睨んだ。
「怪我人相手に物騒な話を繰り返しやがって。人を脅しつけて得意げな顔。胸くそ悪いったら、ないね。てめえの顔見るくらいだったら、クソ師匠の顔を一日中見つめてた方がなんぼかましだっ」
確かに状況は最初から変わらない。いや、エイルがふらついているだけますます分が悪いとも言える。それにも関わらず、エイルの口調には軽いものが戻った。
シーヴの覚醒は、実に彼を安堵させたのである。
「諦めな、イーファー」
まだ、足に力が入らない。立ち上がるのは難しそうだ。だが、エイルは堂々と言った。
「こいつは死なない。俺は首飾りを渡さない。物事はひとつも、お前の望む通りにはいかないんだ。トルーヴとかを追いかけるのは好きにしろよ、俺の知ったことじゃない。ただし」
エイルは、いささか格好がつかないながら、上半身だけを起こした姿勢で杖を突きつけるようにした。
「首飾りは抜きで、だ」
明らかに、分は悪い。だが、エイルは強気に言った。
強気に出た方が勝ちだ、と言ったのはゼレットだったか。こういった口先だけの、何の根拠も伴わない勢いばかりの助言が役に立つというのは――誠実かつ真摯な忠告をくれるファドックに何だか申し訳ない気がする。




