08 春の嵐
「癒し」と言われる力を司るのはごく一部の魔術師にもいるが、主には神官だ。エイルにはない能力である。神官ならばあるというものでもない。ラ・ザインなどは癒しの力を持つものの、実際にそれを行使できる神官はやはり一部だ。たとえば見習いのみで修行を終えたウェンズなどは、そのような業を持たない。
こうして隣にいる以外、彼にできることはない。
魔力を持とうと持つまいと、同じだった。
癒し手でない限り。
或いは、癒しの力を持っていたとしても。
癒し手は傷を治すから、砂漠の若者が首筋に作った真新しい傷口を塞ぐことはできるだろう。魔術神術の類でなくても、医師は十二分に手を尽くし、若き領主の失血死を既に防いでいる。エイルは医療には詳しくないが、多量に血を失った場合は他者から血を移すこともあるのだとか聞いた。そのような措置も取られたのかもしれない。
(――ラニ)
彼は瞳を閉ざすと、使い魔に呼びかけた。
(俺にやったみたいなことは……できないのか)
それは迷った末の問いかけだった。
ラニタリスにかの力を振るわせたくはない。しかし、それで友が助かるならば。魔物がより魔物らしくなり、主人の命令の綻びを探しはじめるようになるとしても。
使い魔自身の成長が斜めに傾くことは怖ろしい。その結果として自分に不都合が生じることも望ましくない。
だがそれよりも胸を締めつける危惧。それを避けたために、友が救えぬようなことがあれば。
『できないなあ』
だがその悩みをラニタリスはさらりと蹴り飛ばした。
『違うもん、あのときとは』
(違わないだろ、同じとこに近づいてるって言ったのはお前)
『あのときは、エイルを呼ぶシシャの声をウチケシたの。引っ張り込もうとする手を跳ね飛ばしたのはウェンズのセイクだよ』
小鳥は続ける。
『でも、シーヴは呼ばれてるんじゃないの。疲れて、うずくまってるみたいな。首飾りの歌じゃ助けらんない』
その返答にエイルは唇を噛み締めた。ラニタリスができないと言うのならば、できないのだ。
『あのね、それよりエイルのができるよ』
(俺はそんな術、何も)
『できるよ。あたしにやったみたいに』
(俺がお前に何したってんだ?)
判らなくてエイルは問うた。彼は、ラニタリスのためだろうが誰のためだろうが、〈導きの精霊〉ラファランが示す冥界への道行きを断ってやれたことなどない。
(名前を呼んだでしょ。それであたし、はっきりしたのよ。エイルの、おかげ)
「名前を」
エイルは口に出して繰り返した。
『あたしね、あれまで何にもはっきりしてなかったの。でも、エイルの声が初めてなの。はっきり聞こえて、それではっきりしたの』
何だかよく判らない説明をラニタリスは得意げに語った。
名前には、力がある。
名前を呼ぶという、行為にも。
「シーヴ」
彼は友人の名を呼んだ。
「シーヴ、しっかりしろよ、お前はこんな……馬鹿なことで倒れる奴じゃない」
意識のない人間に呼びかけるというのは、魔力の有無とは関わらず、目覚めさせる効果を期待できると言う。エイルはそのようなことは知らず、ラニタリスが言ったのもそのようなことであるのかは判らず、ただ呼んだ。
「シーヴ。お前、レ=ザラ様のこと、守るんだろ。ランティムのこともだ。守るために倒れりゃ、格好いいかもしれないけどさ、てめえ、何も守れてねえぞ。クエティスもイーファーも、何つったっけ、そうだ、アロダとかってのも、首飾りの件だって、そうだ、こうなったら偽物屋の件だってまだ中途半端じゃねえか。お前、こんな、半端なままで」
エイルがぼそぼそと呟いている間にアルセントは戻ってきていた。執務官は何も言わず、少し離れたところに椅子を置いて座っていた。
「さっさと目ぇ覚ませよ。俺はさ、ウーレにお前の訃報を伝える役割なんてやりたくないからな。ミンの泣き顔なんか見たくない。ターヴェなんか、俺に決闘を申し込むかもしれないじゃんか、俺を殺せば俺の伝言は間違っていたということになる、とか言いそうだろ」
彼は掛け布の上から友人の手を探り当てると、その上に自身の手を重ねた。
「うずくまってるみたいだって、ラニが。それなら立ち上がれよ。お前にはその力があるはずだ、シーヴ」
返答はない。呼吸は、変わらずに浅い。
「以前ゼレット様を救ったのは、カーディル城の翡翠だってさ。借りてきたら何かいいことあっかな。……無理だよな、〈守護者〉と〈鍵〉じゃ翡翠との結びつきは違う。それに、彼らはいまでも守護だけどお前は……違うんだし」
「不思議な力」は何も彼らを助けない。
翻弄するだけ。
何だか――理不尽だ。
「翡翠、とは?」
思わずエイルはびくりとした。アルセントは静かに声を出したのだが、エイルは執務官が戻ってきていることに気づいていなかったのだ。
「ああ……俺とこいつが会った、きっかけみたいなもんだ」
「閣下は〈翡翠の娘〉を探していたと聞きましたが、そのことですか」
執務官の言葉にエイルは少し口の端を上げた。
「それだよ」
「その娘に幾度も救われたというようなお話も伺いました。彼女ならば、何かできるというようなことは」
「あったかもな」
エイルは困った。
「でも、いないんだ。彼女は、もう」
「……亡くなられたのですか」
「そのような、もんだ」
エイルは友人の手を軽く叩いた。
「おい、そんな話、吹聴してんのかよ。たいがいにしろよ、てめえ。俺はその話、あんま思い出したく、ないんだよ」
真白い宮殿。何処までも続くかのような、白き翡翠の床と壁。姿を目の当たりにした訳ではなく「姿」というものがあるのかも判らない、不思議な声の主をシーヴは〈翡翠の女王〉と呼んだ。
あのとき、大きな傷を負ったシーヴを救ったのは、その女王だった。
いま、かの宮殿への道は、閉ざされている。
エイルは首を振った。「不思議な力」は彼らを助けないのだ!
「リャカラーダ様は、お強い。私は、信じています」
「俺も、同じように思うよ」
エイルはそう返すと再び手を重ね、友人に語りかけ続けた。
そうして――いったいどれだけ経っただろうか。
灯りはいつしか消えていたが、エイルはあらためてつけ直す気になれなかった。
刻はそろそろ、深更だろう。ふっとアルセントが立ち上がる気配があった。エイルは顔を上げる。
「少しお休みになりますか。寝台を用意できますが」
「いや、俺はここに」
「それなら何か、飲み物でもお持ちしましょう」
東国と呼ばれる地域では、水をはじめとする飲み物の采配を振るのは主人の役割で、たとえば召使いが気を利かせて勝手に何かを用意することはない。だがいまの場合、それを担う領主は意識のないままであるから、アルセントの発言は彼らの礼儀においても問題のないものだ。
「ああ、悪いな」
エイルは西でそう言われたのと同様に答えた。言われてみれば、ずいぶんと喉が渇いている。うなずく気配があって、アルセントは再び部屋を去る。気遣うように小さく、扉の閉まる音がした。
「こっちの飲みもんは、やたらと香辛料が利いてるんだよな」
エイルは返答のない友人に語りかけた。
「正直、最初は閉口した。癖が強くてさ。でも近頃は、あれもいいもんだって思うようになったよ」
あんまり甘くされるのは勘弁してほしいけどなあ、と青年は少し笑う。暑い地域では糖分も塩分も生きるのに重要だが、エイルのように訪問するだけの身にとってはいささか強すぎることもある。
だが、いまでは好きだ。異文化的だ、西とは違うのだ、と思っていた風習にもどんどん慣れた。好くようになった。はじめは警戒だけを抱いたこの友人に慕わしさを覚えるようになっていったのも同じ。彼らの間にあった奇妙な絆のためだけではない。
あの年が終わっても、運命は再び彼らを繋げた。
なのに、エイルは自分からそれを切った。
苦いと思った。つらいと。
済まないと思った。巻き込んだと。
同時に、馬鹿野郎とも思った。おとなしくしていればいいのに、と。
今後は――どうなるのだろう。
エイルが切ったと思った紐の先をシーヴはしかし持っていた。
それを三度つなぎ合わせることはできるのか。それとも、友人の指先を開いて、その紐を捨てさせるべきなのか。
それ以前に、友は目を覚ますのか?
エイルは首を振った。
その疑念は、考えたくないことだった。
こうして暗闇でじっと座っていても、眠気は一向に訪れない。不安だけが青年を支配していた。
返答のない独り言にいつしかエイルの口は重くなり、部屋には静寂が訪れていた。窓の外に風の音が聞こえる。
すると、闇のなかに気配が戻ってきた。
「アルセント?」
エイルはそっと声を出した。重い沈黙を破って声を出すのは、どこか憚られる心持ちがあった。
そう言ってから――違和感のようなものを覚えた。
「なあ、アルセント、いま」
すいと彼のうちに浮かび上がる、これは、緊張。
「聞こえなかったな……扉を開ける、音」
「当然だな」
返ってきた声にエイルの心臓はぎゅっと縮んだ。
アルセントの深い声ではない。
「戸など、開けていない」
少し高めの、この声は。
「コリード!」
がたん、とエイルは椅子を蹴飛ばした。
ぱあっと一瞬の閃光が部屋を照らした。浮かび上がる細い人影。剣士でもあるアルセントのしっかりした身体つきとは明らかに違う。
鈍く重い音がゴロゴロと響いた。雷神の降臨である。にわかに烈しく雨神が窓を叩き出した。
ランティムに春の嵐が、やってきた。




