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風謡いの首飾り  作者: 一枝 唯
第6話 嵐の兆し 第4章

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06 起きなかったこと

「リャカラーダ様とて、剣を使われる。達人だとは言えませんが、勘は鋭く、殊、短剣や刀子のような投擲武器であれば名手だと言ってよい。ご自身の短剣を奪われ、首筋を斬りつけられるなどとは、考え難いのですが」

「魔術師、だよ」

 エイルは苦々しく言った。

「商人ともうひとり、いたろ。あいつの、術だ」

 アルセントはエイルが事情を知ることに驚いただろうが、「魔術師」ならばさもありなんと思ったか、そこについては口を挟まなかった。だいたい、しばらく顔を見せていなかったのに、友人の負傷に突然この部屋へ現れたのである。事情を知っているはずだ、と思うのだろう。

「それ故、警護や憲兵の目をすり抜けての逃走を可能にしたということですか」

 逃げたのか、とエイルは思い、当然だろう、とすぐに思った。ここで捕まるような真似をしてくれる男ならば、ここまで侵入を許していない。

「レ=ザラ様にはお知らせしていません。レ=ザラ様にもお子様にも、万一のことがあってはいけませんから」

 夫が死にそうだなどと聞けば、身重の身体にどのような影響が出るものか判らない。シーヴが無事に目を覚ませばそれでよし、万一にもそうでなければその悪影響は計り知れなかったが――それについては、エイルはもとよりアルセントも、冷静なヴォイドですら、考えたくないことであるのだろう。

「シーヴ」

 彼は友人の名を呼んだ。

「馬鹿野郎。何度、無茶をやれば気が済むんだ、お前は」

 二年前の〈変異〉の年。彼らに振りかかった定めは、彼らをさまざまな危険に陥れた。あれが彼らの運命であったことは、エイルも否定できない。

 だが、このたびは違う。エイルの運命ではあっても、シーヴのそれではないと、そう考えて友人を離れたと言うのに。

 ――招いた結果は、同じなのか。

「馬鹿野郎」

 エイルはまた言った。

「いまじゃ、女王陛下の御手はないんだぜ。そりゃ、お前は助けてもらえるって目算があって無茶をやる訳じゃないけどさ」

 ああ、とエイルは思った。クラーナに魔力はなくとも、予知(ルクリエ)に近しい力をきっと持っているのだ。

『君が拒絶しても王子殿下は無茶をやる』

 詩人はそう言った。

『ならば応じて、君がフォローした方がいい』

 シーヴと連絡を密に取っていれば。

 ランティムから出させないようにだけして、でもクエティスや呪術師の件、偽物屋に偽物を渡す件、それらを話していれば。

 エイルが生きていると知らせれば。

 クエティスが同じようにここを訪れたとしても、シーヴは友人の悲報に衝撃を受けたふりをし、なおかつ首飾りを欲しがるふりでもして商人を騙すことに成功し、それだけで済んだのではないか。

 こんな目に遭わせることには、ならなかったのでは。

 起きたことは起きたこと。

 起きなかったことは、起きなかったこと。

 判っている。だが、考えずにはいられない。

 砂漠の王子は昏々と眠りつづけている。エイルが生きて、こうして隣で彼を案じていることなど、知らぬまま。

「エイル殿」

 アルセントの声が青年の視線を友人から離した。

「これをお渡ししておきます。閣下はどうすべきか迷っておられましたが、その名を思えばあの商人は閣下の調べていた件と深く関係するのでしょうから」

 そう言って執務官が差し出したのは、一通の封書だった。

「これ、何だ」

「暗い場所でお読みになりづらければ、お話しますが」

 エイルは封を切ると、便箋を取りだして中身に目をやり――内容を読もうとする前に文字に気づいて、アルセントをまじまじと見た。

「あんただったのか。あの二通の、報告書」

「ええ、書いたのは私です。もちろん、閣下のご命令ですが」

 書記をさせられました、と几帳面で繊細な文字を書く男は言った。

 では、あれはダウではなかった。あれは、ランティムから出ることなく、シーヴがエイルに貸そうとした、手。

 エイルは呆然とした。切れたのだと思っていた糸の先、それを友人は変わらずに、持っていた。

「あなたとリャカラーダ様の間に何があったかは存じません。けれど帰ってきてから、彼は変わった」

 アルセントは静かな口調のままで言う。この程度の明るさでは文は読みづらい。エイルは便箋をしまい、アルセントの言葉を聞いた。

「まずは執務への不満を一切言わなくなった。続いては、気づかれたのはヴォイド執務長でしたが、率先して執務長から仕事を奪うようになりました」

 エイルが「『責任』などは言い訳だ」と言ったことを気にしたのだろうか。言われずとも、シーヴが同じことを選んだかもしれないが。

「ですが、本来は伯爵ご自身がなすべきことをヴォイド殿が若さと経験のなさを案じて代行していただけのこと。大して褒められるべきことでもない」

 ヴォイドの下につく執務官は長の調子が伝染るものか、アルセントは手厳しく言った。

「しかし、彼の変化はそれだけでもなかった」

 以前にランティムの城下からリャカラーダ伯爵を城へと連れ帰ったアルセントを思い出すと、主人の奔放ぶりに苦い顔をしていたことはヴォイド以上だったように思う。

 ランティム城にいる臣下たちのなか、ヴォイドは何だかんだとシーヴとのつき合いが長いが、アルセントを含むほとんどの人間はランティムの出身者だ。王子という地位にあるだけの若者がランティムのために為すべき仕事をさぼりたがれば、あまり好評は博せまい。

 実際のところを公正に言えば、シーヴはよくやっていた。ただ、人は多くを望むものだ。

 アルセントが特別に狭量だったり、視線がことさら厳しい訳ではない。そういうものなのだ。

 だから、このときの執務官の様子にエイルは違和感を覚えた。苦虫を噛み潰したような顔で「リャカラーダ」を町に迎えにきた若者からは思い浮かばない様子が、ここにある。


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