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風謡いの首飾り  作者: 一枝 唯
第6話 嵐の兆し 第4章

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05 何の、役にも

 東国にあるその町は、夜の静けさに包まれていた。

 もし星辰の動きに詳しい者が夜空を見上げれば、そろそろ九番目の茶の刻が終わろうとしている時間帯だと見て取るだろう。

 だが、エイルは空を見上げたりしなかった。

 それでも、天空が一転にわかにかき曇り、数(トーア)前まで星の瞬きを見せていた薄闇空があっという間に黒く染まっていくことは感じられた。すうっと気温が下がり、(イル・スーン)が動き出す。

 東の町に、春の嵐が訪れようとしている。

 青年はぎゅっと身を縮ませ、ただ、その場所に、向かった。

 成程、〈塔〉の言ったようにその町の周辺は魔力の流れを乱されていた。だがそれは大雑把なもので、大砂漠(ロン・ディバルン)のような遠きからここへやってくることを防ぎはするものの、こうして近くまでやってくれば穴だらけだ。短距離の移動には不具合がない。

 エイルは懸命に集中をしてランティムの内部へ移動をし、ラニタリスの助言を受けてランティム領主が眠っている部屋を見つけると躊躇なくそこへ跳んだ。

「――何奴」

 薄闇に深く鋭い声と、しゃっと剣が鞘から引き抜かれる音が響いた。

「アルセント執務官か」

 術でその部屋に移動したエイルは、聞き覚えのあるぴんと張った声に、相手の見当をつけた。〈野狐の穴蔵〉亭から幾度も伯爵を連れ戻した、それは若い執務官である。

「こんなふうに入り込んで、悪ぃ。俺、エイル、だ」

 彼の名がリャカラーダ伯爵の執務官に好印象を与えるとは思えなかったが、少なくとも不審者として即、斬られることはないだろう。

エイル殿(セル・エイル)

 剣が下ろされた気配がした。

 目が暗さに慣れてくる。見れば、大きな寝台の横で不寝番のように――と言うよりも、事実、そうなのだろう――ランティム伯爵についていたらしい三十前の若い執務官は、確かに剣を下ろしているが、隙のない姿勢で警戒を解かぬままだ。

 エイルに対する警戒ではないようだったが、それは何もエイルを安心させない。

「灯り、つけてもいいか」

「……どうぞ」

 エイルは簡単な火の術を思い出し、卓上の小さな角灯に火を入れた。アルセントが身を固くするのが判る。彼はエイルが魔術師であることを知っており、だからこそ突然屋内に現れたことで混乱に陥ったりはしなかった。だが、目前で判りやすい術を見せられれば驚くのが普通の反応である。と言っても、あからさまに怖がったり呪いの言葉を吐いたりするような無知蒙昧でもないようだ。

「何が、あったんだ」

 エイルは、こうしてごく近くで言葉を交わしていても目を覚ます様子のない友人の身体に目をやった。ぼんやりとした灯りが、首から肩にかけて巻かれているらしい白い包帯を照らした。

「怪我、酷い、のか」

 口のなかが乾く。アルセントは小さくうなずいた。

「――状態は」

 言いながらエイルは角灯を手にすると、友人の近くに歩み寄った。

医者(コルス)は。どうして、いない」

「血をかなり失われましたが、幸いにして急所は外れています。医師(コルス)に頼る段階は過ぎました。待機はしておりますが、隣で休んでいます。あとは、リャカラーダ様ご自身のお力だけが頼みだと」

 「すごく寒い場所に、すごく近づいてる」。ラニタリスの言葉が蘇る。エイルは友人の顔を見た。

 闇のなか、不安定な角灯の火のもとで、黒い肌を持つ友人の顔色は判りづらい。だが、明らかに体力を消耗した姿は、眠っていても見て取れる。首筋に撒かれた白い包帯が目と心に痛い。

「昨日、ある商人(トラオン)がやってきました」

 アルセントは静かに語った。

「昨日」

 エイルは繰り返した。

 ――昨日!

 昨日、エイルは何をしていた?

 ただ自分の不安に苛まれ、為すべきこと――ラニタリスと首飾りについても、首飾りそのものについても調べを進めることなく、ただうろうろと思考をさまよわせていただけ。

 シュアラ。アニーナ。レイジュ。ラニタリス。友人として、息子として、かつてのであろうと恋人として、そして主として、彼女たちを危険にさらしたくない、守りたい、そのためにどうすればいいのか判らない、そんな苛々を抱えていただけ。

 昨日、シーヴのことを思い出していれば。

 どうしているだろうと気にして、ラニタリスにランティムの様子でも探らせれば。

 こんな事態には、ならなかったかもしれない。

(何て役に立たない!)

 エイルは歯がみした。

(あんな夢、見たって、過去のことじゃ何の、役にも)

 未来を見れば、それは予見(ルクリエ)だ。

 そんなものはお断りだと言い、未来などというものは自分で掴み取るのだと考えていたのはかつての少年、かつての駆け出し魔術師。

 自分のことならば、それでよい。自分の未来を知って、それを叶えようとか変えようとか、そんなふうに思うことは彼にはないだろう。

 だが――大事な存在。

 それらの安全を脅かす出来事を取り去ることができるなら、魔力は、有用だ。

 実際のところは、力強きルクリエというものは、必ず当たるものだった。だから、もしエイルが事前にシーヴが刺されるところを見て、それが予見であるのならば、エイルがどれだけそれを避けようとしても、必ずシーヴは刺される。それが、ルクリエだ。

 魔術師は、不具合を避けるための予見はしない。できない。定めに手を出したくなる自身を抑制し、均衡を保つ。定めを変えようとすれば、それ以上の大きな反動が必ずあるからだ。

 エディスンの〈星読み〉の術師ローデンや、おそらくはオルエンも、そしてオルエンの力を持っていた間、クラーナもやっていたこと。

 しかし青年は、そこまで自分を律せない。

 知ることができれば、変えられように、と。

 それは、エイルが初めてはっきりと「力」を求めたであったかもしれない。

「商人が町の領主に目通りを願うことは珍しくありませんが、閣下はたいてい、断られる。おべっかや賄賂などは好まれないからですが」

 二十代後半の執務官はそう言うと嘆息した。

「しかし、クエティスという名を聞いて、閣下は商人を招いた。いわくのある人物であることは判っていましたが、このような事態を引き起こすほどの相手だとわれわれが知ったときは、遅く」

「この、馬鹿が」

 エイルは小さく言った。

「判ったつもりで……自分は賢いと思って、あいつを捕らえてでもやろうと思って――この、ざまかよ」

 本当は大声で友の名を呼び、目を覚ませと怒鳴りつけ、その頬をぴしゃりとでもやって黒い瞳を開かせたい衝動に駆られてならない。

 だがもちろん、そのような行動が怪我人の足しにならないことは判っている。それどころか、安静な眠りを邪魔するだけだ。


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