06 言ったはずだな
焦点の定まらぬままで青空を見上げていたエイルが体温を取り戻しはじめたのは、それから一カイ近く経ってからのことだった。
何だか優しい音色が耳に響き、身体を包んでくれたような気がする。
「……どうにか、間に合ったようですね」
ウェンズの弱々しい声がする。
「どう、です」
「まだ、寒い。でも、極寒の真冬程度だ」
エイルはそう言おうとしたが、うまく声は出なかった。
(――首飾りは)
「済みません。そちらは間に合いませんでした」
声の代わりに心で尋ねたエイルは、ウェンズの申し訳なさそうな声を聞く。
(仕方ない。いいさ、偽物なんだし)
「けれど、渡すまいとしましたね」
(ああ、そうだな)
エイルは身を起こそうとして、しかしこれもまたうまくいかなかった。
「何が」
掠れる声をどうにかしようと、青年は咳払いのような真似をした。
「何が、あったんだよ」
言いながら、ようよう、エイルは身を起こした。
「またしてもやられた、ということです。本当に、申し訳ない」
「よせよ」
エイルは笑おうとしたが、やはりまたうまくいかない。
「あんたは別に俺の護衛じゃないんだし。……それに、助けてくれたんだろ、あんたが」
死んでもらう。
イーファーはそう言った。彼は、殺されるところだったのだ。
「こんなところで神官の修行が役に立つとは思いませんでしたよ」
「神官の? じゃ、魔術じゃないんか、あいつのあれ」
エイルがかろうじて声を出すと、ウェンズは眉をひそめた。
「『呪術を行うのに都合のいい場所だ』というようなことを言っていたでしょう。あれは何も、協会に術の行使を感づかれないためだけではなかったんです」
そう言うとウェンズは厄除けの印を切った。
「あなたは、死者の怨念に憑かれて冥界か、それとも獄界に引きずり込まれるところでした」
エイルは目をぱちくりとさせた。
「すげえことをあっさり言うなよ」
「本当ですよ。あの男に対抗するならば、魔術よりも神術が有用やも。私の修行は見習い段階でしたから知る術は初歩だけですが、聖なる言葉は怨霊の嫌うもの。どうにか追い払うことができたようです」
「おかげさまでね」
エイルは両の拳を開いては閉じ、血の気を通わせようとした。
「けれど、私だけじゃないんです」
「は?」
「もう戻ってきますよ、と言うと、あそこに隠れてしまった」
ウェンズがすっと指を差したのは、知らぬ名前が刻まれた背の高い墓標だった。
「――ラニ!」
エイルは戻ってきた顔色をまた青くした。その影からのぞき込むようにしているのは、子供の姿を取ったラニタリスである。
「驚きました」
ウェンズは首を振って言った。
「いきなり小さな鳥があなたをめがけて飛んできたかと思うと、急にあの姿に」
「おまっ……くるなって、言っただろうがっ!」
「だって、だって、だって!」
子供は墓の影から隠れた。
「エイル、何もないって言ったじゃない! だから、行かないって約束したのに、あんなになったら、約束がちがうもんっ」
「ラニタリス……ですよね、例の、使い魔の」
「……そう」
ここで否定することには何の意味もなく、エイルは認めた。
「ずいぶんと珍しい存在をお使いで」
「そう思われたくなくて、黙ってた」
「済みません」
「いいんだよ、あんたが変に人を持ち上げたり、それとも逆に妬んだりしないことはもう判ってるし」
エイルは口の端を上げた。
「ラニ」
「怒ってる?」
「怒ってない。こっち、こい」
そう言うと子供はたたたたっと走ってくると地面にへたり込んだままの主の隣にぺたんと座り込む。
「ウェンズ、こいつが何か、したのか」
「何度もあなたの名を呼んで、すがりつくようにしていました。そのとき」
エディスンの術師は息を吐き、間をおいて続けた。
「私は、不思議な音色を聞きましたよ、エイル」
「――聞いたのか、あんたも。ここには、あれは、ないのに」
「〈風謡いの首飾り〉」
ウェンズは厳かにその名称を告げた。
「あなたは、自分が風司だとは思わないと言い切っていましたね。あれはこのためなのですか。このラニタリスが風司だから」
「かもしれない、とは思ってる」
エイルは認めた。
「ではあれは、首飾りの音色」
「そうなんだろう、な」
しゃらん――しゃらん。
そうだ。冷たさに固まった身体がほどけていくとき、エイルの身体を包んだのはウェンズの聖句と、かの音色だった。
「その音聞いて、何か、おかしな気が起こらなかったか」
「例の呪い、ですね。現物がないためでしょうか、欲しいというような気持ちは起きませんでしたが」
「乗りこなしたのよ、あたし」
えっへん、と威張るようにラニタリスはウェンズを見上げた。
「乗りこなした? 呪いを……ですか?」
「どう、なんだろうな」
エイルは呟いた。
「首飾りを欲するんじゃなくても、ほかに何か、なかったか」
慎重に言うとウェンズは考えるようにしてから、首を振った。
「いいえ、何も。その音はエイル、ひたすらあなたに向かっていたようでした。あなたを生死の境から引き揚げるためだけに」
「心配だったの。エイルが、遠くに行っちゃいそうで。行かないでってオネガイしたの。いしょけんめ」
「『一生懸命』」
修正を加えながらエイルは首を振った。
「乗りこなしてる、か」
ラニタリスが首飾りを鳴らしたとき、そこには呪いがもたらす暗い要素はない。子供が風司という存在であるのならば、本来の力に近いものが引き出されるのかもしれない。エイルを「引き揚げた」というのはそれだろう。
だが、呪いは消えていない。エイルは覚えている。塔で子供がそれを意図的に鳴らしたとき、彼の内に浮かんだ感情を。
彼の使い魔だからではなく、この美しい音色を奏でる子供を守りたいと強く思ったこと。
――もし他者が聞けば、この子供が欲しいと思うかも、しれないこと。
「ラニ」
エイルは静かに使い魔を呼んだ。
「俺は鳴らすなと、言ったはずだな」
その言葉にラニタリスはびくりとした。
「あの、ごめんね。鳴らそうと思った訳じゃないの。だって、あれ、ここにないんだし、鳴らせるなんて思わないし」
「ラニ」
「ごめんなさい。でも、エイルの言ったこと、守らないってした訳じゃないよ、本当だよ」
「あの音色がなければ、あなたがこうして無事に戻ってこられたか判りませんよ」
エイルとラニタリスのやりとりを大方理解したのだろう、ウェンズは公正な観点からそう口にしたようだった。だがエイルはまた首を振る。
「結果としちゃ、そうだ。でも俺はラニタリスに禁じた。あれを鳴らすなと。こいつは、それを破った」
「ごめんなさい。破ろうとしたんじゃないの、でも、鳴っちゃったの」
ラニタリスの表情はまるで泣き出しそうだった。このままエイルが厳しい言葉を投げ続ければ、本当に泣いたかもしれない。――魔物が悲しみで涙を流すものかどうかは、判らなかったが。
「塔に戻ってろ。首飾りには、近寄るな」
「……はい」
しょんぼりとしたままでラニタリスは言うと、弱々しく両手を上げて鳥の姿を取った。ウェンズが息を呑む。
「行け」
ラニタリスがもっと言い訳をしようとする前に、エイルははっきりと命じた。小鳥はしばしその場に羽ばたき、すうっと空へ消える。
エイルは、深く息をついた。
「何をそんなに気にしているんです? 彼女が風司であることは確実のように思えますが、呪いを『乗りこなせる』のであれば、問題はひとつ減るのでは?」
「押さえてねじ曲げることは、呪いを解くことじゃない」
ウェンズの疑問に、エイルはそう答えた。
「呪いは、あるんだ。ウェンズ。いまは、ラニがただ俺を救おうとそれを鳴らしたからあんたは何も感じなかったんだろう。でも、呪いは、あるんだ」
エイルはそう言うと両手で自身を抱くようにした。
「寒い、のですか」
「――ああ」
先の霊気のため。それとも、首飾りにまつわる、変わらぬ危惧のため。
「歩けるようでしたら、近くの神殿に行きましょう。ムーン・ルーかラ・ザインに癒しをもらった方がいい」
ウェンズはエイルの体調に話題を戻してそう言った。
「そう、かもな」
同意してエイルはゆっくりと起き上がった。まだ、寒気を覚える。




