03 運がよかっただけ
「珍しい印なのか」
「非常に大きな力があるものですよ。私は知識として知っていますが、使ったことはない。もし、その封を解くのがその印だと気づいても、躊躇ったでしょう」
「へえ。何か、やばいもんなのか?」
自分がそれを切ったというのに、エイルは呑気に尋ねた。
「単純化した言い方はあまり好みではないのですが」
そんなふうに前置いてからウェンズは嘆息し、続けた。
「『邪な力』と言えます」
「怖いこと言うなよ」
エイルは顔をしかめた。そんな印を使ったとは思いたくない。
「けれど、本当です。先の印は、それこそ呪いに使われることも多い。それも、ちょっとした不運を招く程度じゃありません。知識と力、ともにある術師がその気になれば、目標の一族郎党を滅亡させることだって」
「話が大げさになってないか」
制するようにエイルは言ったが、今度はウェンズが首を振った。
「あなたを脅かしても仕方ないでしょう。真実なんですよ」
確かに、ウェンズがエイルを怖がらせることに何の意味もない。
「少し判ったようですね」
「何が」
エイルは片眉を上げる。
「その印が仕込まれていたと言うことは、時間を計るつもりかもしれません」
「どういう意味だよ」
判らないので素直に尋ねた。オルエンに訊くのは抵抗を覚えることもあるが、ウェンズには平気だ。
「彼は、協会にいるよう指示をして、導師級の術師でなければ解けない印を施した」
「それほどでもないだろ、俺が解けたんだから」
「そのことについては、あとにしましょう」
ウェンズは片手を上げてエイルの反論を制した。
「少なくともコリード、イーファーはそう考えている、ということにしましょうか。彼は、あなたが導師を頼ると考える。協会の導師になるような術師なら、ある程度は良識があります。先の印を切るとなれば、魔除けの陣を用意した上、太陽が力を持つ真昼の時間帯まで待つでしょう」
「ほ、本当にそんなやばいもんだったのかよ」
ウェンズが不必要に言葉を飾らないことは知っているが、それでも大げさに言っている、或いは心配しすぎていると考えていた。しかし、エディスンの魔術師は本気で言っているようである。
「そうです。そんなものを封書にかける術師もどうかと思いますが、何も知らずに解くあなたもどうかと思います」
褒められたのかけなされたのか微妙だ。いや、褒められた感じはしなかっただろうか。
「朝方に伝言を送り、昼過ぎにあなたが読み解けば、良識ある導師のような助っ人がいると。朝の内であれば」
ウェンズは少し笑って続けた。
「非常識な助っ人がいると」
「俺が読み解いたって事実は無視かい?」
エイルは不満そうに言ったが、本当に不満に思っている訳ではない。コリードがそう思うだろう、ということだ。
「私がラギータ家で彼の『呼び鈴』をかわしきれていなければ、あなたに援軍がいることを知っている。私の力を見極めるつもりなのかもしれませんが」
「まあ、向こうがどういうつもりかは」
言いながらエイルはくしゃくしゃになりかけた封筒をのばし、慎重に中身を取りだした。
「これを見れば、何か判るかもな」
しわになった便箋を破らないように開く。
「さあて、いったい、どんなことが」
書かれているかと思いきや、そこには思いがけないものがあった。エイルは目をぱちくりとさせる。
「何だ、これ」
「何と書かれていますか」
「……何も」
エイルはそう言うと、取りだした紙切れをウェンズに示した。
「赤い点が、ふたつ描かれてる。それだけだ」
長方形の便箋には、左方に一点、中央ほどに一点、赤い点がぽつぽつと打たれているだけであった。
「これは」
ウェンズは目をしばたたいた。
「何だか嫌だな。まるで、血みたいだ」
エイルは〈風謡いの首飾り〉――いま手元に持ってきている偽物ではなく、塔にある本物――を思い出した。血痕のような斑点。
「そうじゃありませんよ。これは、地図です」
「はあ?」
エイルが素っ頓狂な声を出すとウェンズは笑った。
「不思議な人だ。ダゴール=アンディアの印を平気で切るのに、魔地図を知らない」
「何たらの印も知らないよ。偶然さ。運がよかっただけ」
偶然や幸運では解けないとエイル自身考えたが、敢えて彼はそう言った。エディスンの術師もたまたま解けるものではないことくらい百も承知だろうが、こちらも敢えてか、何も言わなかった。
「片方はアーレイドですね。もう片方が指示先でしょう」
「俺には点がふたつ、見えるだけなんだけど」
「私も同様ですよ、いまはね。必要なのは、顕呪、そして〈ヘルサラクの幸印〉です」
にわか教師は教えるように言った。
「旅神が魔地図だかを読み解く助けになるって?」
「『らしい』でしょう?」
ウェンズはそう言うと神に祈る仕草をした。元見習い神官のやるそれは流れるような自然な動作だった。
「私がやりますか?」
「まずは、試してみるさ」
協会であれば、彼であってもうまくいく確率が高い。頭痛も覚えなくて済むだろう。ただ、そう判断をしたと言うよりも単純に「やってみよう」と思った。一種の負けん気かもしれない。コリードに対する。それとも、ウェンズに対する。
ではどうぞ、と促されたエイルは〈顕呪〉を思い出そうとした。
〈呪〉と〈解呪〉が表裏一体であるように、顕わすものは隠すものとひと組だ。指の動きと唱えるべき呪文に思い当たったエイルは、駆け出しよろしく、たどたどしい手つきで術を行う。先ほどの、素早く迷いのない解封が嘘のようだ。
エイルに言わせれば、ある意味、先ほどの解封はまさに「嘘」になる。勘、運、たまたま、それ以外の何かであるはずもない。魔術にそのような偶然、不確定要素はないはずであるとの前提は、忘れることにした。
本来有り得ぬはずの「偶然」は、星辰で言えば箒星フォーリア・ルーだ。日常の動きに全く関わらず、読み切れず、そのくせ日々に影響だけは残していく、興味深くてなおかつ厄介な気まぐれ女神。
普段はいない。見えない。有り得ないようで、真実の存在。
たとえば「導師級の魔力を秘めている」よりも稀少であり、考えようによっては珍妙なこととも言えた。
エイルはそのようなことは知らず、ウェンズも正確には掴んでいないだろう。
ダウやスライは気づいているのかもしれなかった。そうであれば無論、オルエンも。
だが知らない。エイルは知らない。そんなふうには思わない。
〈変異〉の年の間、特殊なる唯一無二の存在であることが疑い得なかったときでさえ、彼は自分が特別だと思ったことはなかった。
これからもないだろう。たとえ、彼の運命がどのような変遷を遂げたとしても。
ウェンズの助言通りに〈ヘルサラクの幸印〉――神官が祈りの際に使う信仰を示すものとは異なり、それよりもむしろ、ごく普通の旅人たちが加護を願うために切る、素朴な印に近い――までを終えると、手にした紙がほんのりと光るようだった。
「お」
「働きました。見えますよ」
ぱああっと浮かび上がる、なだらかな曲線。
エイルはあまり地図の類に世話になったことはないが――大街道を歩けば次の町にたどり着くと思っているし、実際そうだ――故郷近辺の地形を描いたそれを見たことはあった。
まず見えたのは、アーレイドのある湾をなぞった海岸線。となると、左の点がアーレイドである。
問題は、真ん中付近にある点だ。
現れた線は主に街道を描いているようだったが、エイルは距離感が判らず、線が完全に見えるようになってもそのまま考え込んだ。
「どこだ、これ」
「どの辺にあるように見えます?」
ウェンズが問う。エイルは眉をひそめてから答えた。
「……真ん中」
「当たりです」
エディスンの若者は真ん中の点を指した。
「ビナレスの臍、フラスの街ですよ」




