02 聞いたことないか
エイルは、ウェンズを連れることを選んだ。
〈塔〉に助力を乞えば、これまで幾度もやってきたようにひとりで戻ることができる。魔力の介添えなどは要らない。
だがエイルはウェンズを連れることを選んだ。いまはそれが必要なときだ。信頼できる、魔術師の友。
ウェンズのなかは疑問でいっぱいだろうに、彼はそれを軽々しく口にはせず、エイルの説明を待っていた。
「酒、飲るか?」
「あなたは?」
「俺は、水」
「ならば私もそうします」
ウェンズの言葉にうなずくと、エイルは台所へと向かった。木杯に水を汲んでくると、くい、と首を動かして階段を示す。食卓のほかに、複数の人間が座れるような場所は二階にしかない。
四方三ラクトもないような狭い部屋には、石製の卓と椅子がある。エイル自身が何か飲み食いをするときは食卓だったし、オルエンも勝手知ったるかつての我が家とばかりに同じようにやっていたから、こうしてここに誰かを招くのはずいぶんと久しぶりだ。
出会ったばかりのシーヴを疑い、彼に怖れを覚えて逃げ出したのは、この部屋からだ。
石の壁はたかだか数年間では何の変化も見せず――彼らの、彼の運命が流転を遂げても、ここはあの日と変わらない。
「レン、て、知ってるよな」
しばらくの沈黙ののち、エイルはゆっくりと言った。ウェンズが知っていることは承知だ。あの薔薇の館のなかで、彼らはその話をしたのだから。
「〈魔術都市〉ですね」
ウェンズもそれが口火に過ぎないと気づいたか、余計なことは言わずにただそう言った。
「そう」
エイルはうなずいて、どう言おうかと迷い、口を開きかけては閉じ、それからようやく声を出す。
「どんなこと、知ってる」
「噂に聞くくらいしか」
中心部になるかならないかというようなエディスンのかなり南西、ほかに治める街町を持たぬ自由都市のような街でありながら、その力は強大。しかし、そこを訪れた者は少なく、出てきてその様子を伝える者はいない。ウェンズはそんなふうに語った。
「現存する伝説、というところでしょうか」
「そんなもんだろうな」
エイルは木杯を持ち上げ、だが水を飲むことなくそれをもてあそんだ。
「奴らが、身体のどこかに彫りものをしてるって話も、知ってるんだよな?」
「聞いたことはありました」
ウェンズも杯を持ち上げ、少し水を飲んだ。
「動物の彫りもの。それも、どこか歪んだ。隻眼であったり、三本足であったり」
「それなんだ」
エイルは杯を握りしめた。
「あの初代、スーリィンの胸にいたのは、耳が片方しかない猫だった」
「……しかし」
「判ってる。だから何だってんだろ。レンの女術師だったからって何なんだってな」
「そうですね」
ウェンズは認めるように言った。
「ラギータ家の初代当主がレンの出身だった。それでその家系は魔術師に対する禁忌を持たず、それどころか積極的に婿取りをする。スーリィンの望みではなく、後代にレンの術師と結ばれなかった当主の遺言だということでしたが、何にしても却って納得の行く話です。あの絵画が放つ奇妙な魅力も、それに端を発しているのかもしれない。むしろ、興味深くならありますが」
「興味なんか、持つなよ」
エイルは苦々しい思いを込めて言った。
「俺は〈魔術都市〉なんざ知らなかった。リック師……俺を初めて指導してくれた導師も、そんな『伝説』を俺にわざわざ語らなかった。だけどその代わり、俺は身を以って知ったんだ。あの街の人間の、怖しさ」
エイルは身を震わせそうになり、それを抑えて丁寧に厄除けの印を切った。
「レンの人間が全員冷酷非道で人非人だって言ってる訳じゃない。そうじゃないのがいるのも知ってる」
彼はそう続け、ウェンズの様子を窺うようにしながら続けた。
「オルエンの出身は、レンだ」
「そう――なのですか」
ウェンズの内にはまた、まるで伝説のようだ、というような言葉が浮かんだかもしれないが、少なくとも口にはせず、ただ驚いた顔をした。
「それから、トルーヴ」
エイルはかいつまんで、オルエンとトルーヴの共通点を説明した。
「そうだ、〈塔〉」
ふと顔を壁に向けてエイルは建物を呼ぶ。
「聞いたことないか、トルーヴって」
「トルーヴ」
〈塔〉は繰り返し、そのあとに奇妙な沈黙があった。
「おい」
「――ある」
「おいっ」
意外な、それとも案の定な返答にエイルは卓を叩いた。
「何もんなんだ、そいつはっ」
「それは、前の主に訊くとよい、主よ」
「てめえ」
人間であれば胸ぐらを掴んでやりたいところだが、生憎と石造りの塔相手ではできない。
「何を慌てる。私から中途半端な話を聞くよりも、オルエンから聞いた方がよいだろう。もし彼が言わぬと告げ、それでもお前が聞きたいと言えば、私の知ることを話す」
「本当だな」
エイルはじとんと壁を見た。
「嘘などはつかぬ。手があれば誓いの仕草でも何でもしてやるところだ」
「師匠殿に尋ねるのがやはり、いちばんでは」
ウェンズも意見を言った。
「あなたがイーファーよりもトルーヴを気にした理由は判りました。レンを強く警戒すると。けれど、推測をしてみてもはじまらない」
「そうなんだよな」
エイルは同意した。
「あのクソ忌々しい爺を待つしかない。まあ、やってきたところでそれより緊急の話もある訳だし」
「クエティス。コリード。偽の首飾り」
ウェンズが言い、エイルはうなずく。
「やるっきゃないよなあ、似非芝居でもさ。クエティスの貴婦人は大した材料にならない気もすっけど、そういや」
エイルははたとなった。
「コリード。スライ師、結局撒かれちまって、それっきりかな」
「そう言えば、伝言がある」
〈塔〉は思い出したように言った。
「スライ殿が、戻ってきたら連絡をほしいと」
「てめえっ」
「済まぬ」
素直に謝られると罵倒しようという出鼻をくじかれる。そもそもエイルがウェンズを連れてきたからそちらの話を優先したのだと言われれば、反論もできない。
「んじゃ、先にそれだな。スライ師」
エイルはそう言うと瞳を閉じ、深呼吸をした。
アーレイドほどの遠くに声を投げる。それはいまだ、彼の得意とするところではない。集中力があるときは、アーレイドからヨアにいるウェンズにまで声を投げられたが、いまは意識が散漫になっている自覚があった。
「お手伝いしますか?」
「頼む」
いささか情けないが、意地を張っても仕方がない。エイルはそう答えた。目を閉じていた彼には判らなかったがウェンズはうなずいて立ち上がると、エイルの後方へやってきてその肩に手を置いた。
(――スライ師)
その瞬間、大柄な魔術師の印象がぐっと鮮明になった。エイルは驚き、感謝と感心もしながらウェンズの助力を受ける。
(スライ師。俺です、エイル)
『おお、クソガキか』
その返答にウェンズが笑うのが感じられた。
「待たせたな、待ち人の正体が判明したぞ」
声がはっきりしてくると、戦士のような風貌がにやっとする様子が目に浮かんだ。
「まじかっ。さすが導師、頼りになるっ」
「そうでもないだろう。これだけかかったんだし、ましてや、いまさらだろうに」
「んなこた、ねえよ。まだ時間はある」
エイルはいきりたった。
「まずは結論と行こう。奴の名はずいぶん、嫌な響きだぞ」
スライは実に嫌そうに言った。
「奴の名は、イーファラードだ」
「イーファラード」
エイルは繰り返した。それが――コリードの名。
(ん?)
まさか。
「物騒な名ですね」
ウェンズが口を挟み、スライに自身を明確にした。
「エディスンの坊やも一緒か」
「そうです」
クソガキに坊や扱いされた若者ふたりは少し笑った。
「それにしても、何でまたこんな名前を選ぶもんかね」
「おかしな意味でもあんのか」
青年の問いに、導師がうなずくのが判った。
「カナチアス・ケイスト一族や、黒のメイ・ツェン級とされる呪術師の名だ」
「あー」
エイルは頭をかいた。
「残念だけど、俺はどっちも知らないよ」
「〈失われた魔術師たちの砦〉の伝説はご存知ですか」
ウェンズが言った。
「聞いたこと、ある。この大陸を越えてずっと北にある、それは不気味な廃墟だとか。悪い魔法使いたちの巣窟だったって」
「そんなところだな。あれは作り話じゃない。かつて、カナチアス・ケイスト一族は魔術を使ってリル・ウェン大陸を支配した。暗黒時代という訳だ。結局のところは駆逐され、一族郎党、滅びたということだが」




