09 イーファー
「じゃあ」
エイルは唸った。
「本当に、優しい調べに乗った、ってことか」
スーリィンは〈風謡いの首飾り〉の司であったのだろうか。
(怒れる民衆の心を落ち着けた)
(それが――首飾り本来の力、か?)
首飾りには人の心を穏やかにさせる力があるのではないか、と推測をしたのは確か、エディスンの宮廷魔術師だ。
青年は思い出す。彼の使い魔が振るった奇妙な力。
「首飾りを欲するようになる」呪いと、「人の心に働きかける」力が混ざり合い、ねじ曲げられたような、あの思い。
「それじゃ」
エイルは喉の渇きを覚え、よい香りのカラン茶をすすってから続けた。
「どうして、首飾りはスーリィンから離れたんだ?」
クエティスは判らないと言っていたが、嘘かもしれない。
「それは」
リティアナローダは首を振った。
「判らないのよ」
「でも」
エイルは食い下がった。
「家宝、なんだろ。代々伝わってたんじゃ」
言いかけてエイルは自分の言葉に首をひねった。
スーリィンは「初代」だ。初代が失ったものは「代々」伝わらない。
「伝わっていれば家宝と呼ばれたでしょうね。けれど、伝わらなかった」
リティアナローダは、エイルの考えと少し違う言葉で同じことを語った。
「ケミアンがそのように言ったのかしら? そうね、彼にとっては宝ね」
女主人はそんな言い方をして、笑んだ。
「そっか」
エイルは短く言って、頬杖をついた。
確かに「家宝」とするに相応しい品である。現実には初代以外が手にしていなくても、それを「失われた家宝」と考えることはそれほど不自然でもない。
それによりも気になるのはこちらだ。
スーリィンが風司とかであったならば、ラニタリスのように「あたしの」とは思わなかったのだろうか。意図的に手放したにしろ、そうでないにしろ、そのことは彼女と首飾りのつながりをどう変えたのか。それとも、つながりがなくなったことで手放した、或いは――首飾りが去っていったのか。
答えは出ない。何百年も過去の女性に、それを尋ねることはできない。
(オルエンは、何か知っているんだろうか)
知っていれば何かしら言ってくるだろうと思っていたエイルだったが、それは怪しくなってきた。「トルーヴ」がもしオルエンであったなら、彼は首飾りのことを最初から知っていたことになるし、そうであれば「砂漠の魔物」について話をしてきた瞬間から、オルエンの言葉は全てが嘘になる。
(判らねえ)
エイルはこっそり嘆息した。
クエティスは本当に「貴婦人」に恋をしているのか。引っかかるのは、「大事な貴婦人の首飾り」で偽物商売をしていること。金は金と割り切るような性格と、初恋の絵画に首飾りを取り戻そうというような純情が同居するものだろうか。
それから、トルーヴ。魔術師が追う男。首飾りを砂漠に捨ててタジャスを救った「賢者」。謎のレンの術師。
スーリィンもまた、レンの術師だ。片耳の黒猫。
その街の名はエイルの背筋をぞっとさせる。だが首飾りとレンに直接の関係は見当たらない。スーリィンが首飾りを手にした経緯はさっぱりだが、どうやって手に入れたのであろうとレンを去った女性だ。魔術都市との関連性は考え難かった。
トルーヴのことは気になるものの、ウェンズが言った通り、誰が首飾りを捨てたのでも、いまの問題に関わりはない。
それがやはりオルエンであるならばともかく。
(もし本当にオルエンが何百年も前から探ってて判らないんじゃ)
(俺がちょろっと調べたくらいで何か判るはずもないけど)
だがそのことは未確定だ。それを前提に考えるにはまだ早い。
「お母様」
不意に、少女の声がした。三人の視線が戸口に向く。
「いま、イーファーがきたわ」
「あら、久しぶりね」
女主人は意外そうに言った。エイルとウェンズは目を見交わす。噂の弟君か。
「首飾りについて知りたいのなら、弟も同席させましょうか」
「いいえ、お母様」
返事をしたのはリティリーザである。
「もう、帰ったの」
不思議そうな顔をしたのは、三人ともだった。
「私に顔も見せないで帰ったの? 何をしにやってきたのかしら」
リティアナローダは首をかしげ、その娘は視線を若者たちに向けた。その目は、傷跡を隠していないウェンズの顔をじっと見て、小走りに青年のもとへ寄る。
「ねえ、ヒサラ。私やっぱりヒサラがいい。さっきは少し驚いたけれど、もう大丈夫。ねえ、ここに残って頂戴。私、イーファーは嫌なの、あの人、怖いんだもの」
少女の言葉は、そのイーファーなる魔術師が彼女の夫候補であることを示唆した。
「イーファーってのはあんたの弟だろ。この子の叔父じゃないか」
エイルは少し驚いて言った。親兄弟以外でさえなければ婚姻も認められる法は多いが、近親者は避けるのが一般的でもあった。
「叔父である前に、最も身近な魔術師だわ」
それがラギータ家の当主の返答である。
「イーファーはようやく生まれたラギータ家の魔術師。女であれば長子でなくとも家督を継ぎ、スーリィンの再来としてラギータの名に栄誉を取り戻したかもしれない。けれどイーファーは男で、家は私が継いだ。薔薇の屋敷は魔術師の薄暗い欲望だけを呼び、スーリィンが捨てた栄光は〈淡雪のような〉幻」
東国とされる地域に雪が降ることは滅多になかったから、リティアナローダの台詞には、エイルがそれを口にするときよりも幻の意味合いが強まった。「雪」が現実に存在するかも判らない――スーリィンの物語がどこまで真実かも判らない。
「イーファーは、ラギータ家を継ぎたがった。リティリーザと婚姻を結べば、擬似的にそれが成される。そう思っているのかもしれないわ」
女主人は肩をすくめた。そこからは、それを望んでいるのか嫌悪しているのか、どちらとも取れなかった。
「彼が嫌なの、リティリーザ。どうしても嫌だというのならば、ほかの誰かを選ばなくてはね」
「ヒサラ」
少女は母の言葉を聞くと懇願するようにウェンズを見た。
「お願い」
「いったい何が怖いんです? 叔父君はあなたに何か……したのですか」
「違うわ」
リティリーザは首を横に振る。
「私じゃないの。あなたよ。あなたたちに」
「俺、たち?」
どうやらそれはエイルとウェンズのことらしい。エイルは目をしばたたく。
「言わなかったわ。何にも話さなかった。名前も、職業も、顔かたちも。イーファーは怒鳴ったり殴ったりはしないけれど、じっと私を見て、それから帰ったの。何だかとても、怖かった」
言う少女の肩は震えているようだった。
(おい、慰めてやれよ)
状況はよく判らないが、何となくエイルはウェンズにそんなことを告げた。
『私がですか?』
(何で意外そうなんだ。お前に決まってんだろが)
『子供のようでも女性なんですよ、エイル。妙な期待を抱かせるのは気の毒』
(馬鹿なこと言ってんじゃねえよ、女でもガキだよ、やってやれ)
エイルの言葉にウェンズは心でだけ笑い、顔は真面目にして声を出した。
「大丈夫ですよ、彼はもう去ったのでしょう、あなたには何も悪いことは起きません」
「私じゃないのよ、ヒサラ。言っているでしょう、あなたたちなの。イーファーはあなたたちがここにきたことを知っていたわ。彼の魔法を踏み越えてスーリィンのもとへ行ったのは誰なのかと訊いたのよ」
エイルとウェンズはまた目を見交わした。――階段の三段目、何かの魔術。
「いつも、そんななのか? その、誰かがスーリィンに近づいたら」
「どうかしら」
女主人は首を傾げた。
「いまやラギータ家が立派なのは家と伝統だけで、客はろくにやってこないわ。薔薇の夜露を求めてやってくる魔術師ならばたまにいるけれど、彼らが興味を持つのは庭園で、肖像画じゃない」
他人があの階段を昇ることはもうずっとなかったのだ、とリティアナローダは言った。
「何だか嫌な感じがしたの」
リティリーザは震える声で言った。
「だから何も言わなかったわ。でも、彼はきっと知っている。あんなふうにイーファーが笑うのは見たことがない。すごく、怖かったの」
「笑った? あの子が?」
娘の母にして男の姉は意外そうな声を出した。
「そう、あの子が笑ったの」
女主人は嘆息して首を振った。
「気をつけて、若い魔術師さんたち。私が家を継いでから、彼が笑ったのを見たのは二度だけ。父が死んだときと、夫が死んだとき」
「――何だって?」
エイルはその意味に気づくよりも先にぞくりとするものを覚えた。
「父親と、義兄の死に笑った? あんた、そんな薄情な奴を娘の婿に据えようなんて思ってるのか?」
「言ったでしょう、弟である前に、身近な魔術師であると。それに私は、あなたたちに気をつけてとも、言ったのよ」
エイルとウェンズを順々に見ながら、女は淡々と続けた。
「彼は身内の死に笑ったのではないわ。彼は、魔術師の死に、笑ったの」
静かな言葉にエイルはカラン茶で喉を潤そうとして、それがいつの間にか空になっていたことを知った。




