01 隠していた訳では
商人クエティスが一方的に定めた約束の日まで、もう残り半日を切っている。
エイルが持つ選択肢は、偽物を渡すか、それとも渡さずに戦うか、そのどちらかだ。
オルエンが言ったように、クエティスが「首飾りなど要らない」と思うようにし向けるという考えもあったが、それは、たとえばコリードと魔術合戦などを繰り広げなくても「戦う」、「抗う」という回答と言えた。
どちらと定めた訳ではない。
渡して騙しきることができればいちばん平穏だが、エイルはいつ相手にばれるかとびくびくしながら日々を送ることになる。
自分の胃が痛むだけで済むならばよいものの、謀られたと知った商人が母や王女に害を為そうと本当に画策をしてくれば、結局は戦わなくてはならない。
何にせよ、クエティスの「初恋の貴婦人」について知っておくことは、何らかの手札になるとエイルは考えていた。まさか絵画を傷つけるぞと脅す訳ではないが――同じことをするのは矜持が傷つくということもあるが、絵画を盾に取るような絵面は間が抜けるだろう――知っているぞとほのめかすだけであろうと、選べる手段が増えることは悪くない。
そうして、ウェンズの協力を得ながらやってきた東国の町、その名はサンスリーンと言った。
訪れた薔薇の館。
現れたラギータ家の娘。
エイルは無遠慮になりすぎない程度に、少女をじっくりと見た。
リティリーザと名乗った娘は、十五歳前ほどに見える。
暗い赤の衣服は質がよく、まっすぐに伸びた髪もよく手入れをされているようだ。言うなれば、絵に描いたような「お嬢様」である。上品な言葉遣いもまた、よい家の育ちを思わせた。自ら言った通り、ラギータ家の娘であるのだろう。
「魔術師協会の紹介でもなければ、その使いでもないと言うのね」
リティリーザは首を傾げてエイルとウェンズを見た。どこか小悪魔的、という印象があるのが不思議だ。この年頃の少女だけが醸し出す、不安定な魅力とでも言うのだろうか。
「それならばいったい、何をしにきたのかしら」
その問いに、エイルは少し迷ったあとで口を開いた。
「この屋敷の大階段に、貴婦人の肖像画が飾られているってのは本当か?」
彼は目的の半分を正直に語った。これくらいならば、不審でもあるまいと判断したのだ。
「そうよ」
リティリーザは簡単にそれを認めた。こくりとうなずくその様子はいかにも子供らしく、先に一瞬感じた妖艶な雰囲気は幻だったかのようだ。
「それを見たいんだけどさ」
「どうして?」
当然の疑問である。
「私たちが探している女性かもしれないからです」
ウェンズがそんなことを言った。
「誰を捜しているのかしら?」
「誰、と言うべきかは判りません。ただ、幾枚もの肖像画が、家の顔たる場所に飾られている偉大な女性、判っているのはそれだけ」
嘘をつくことなくウェンズは言った。曖昧だが、その曖昧さは却ってリティリーザの気を引いたようだった。
「確かに、スーリィン・ラギータの絵は幾枚も飾られているけれど」
「スーリィン・ラギータ」
エイルはこっそり繰り返した。これがクエティスの「貴婦人」の名だろうか。
「彼女はラギータ家初代の女主人よ。この家では、女が家を継ぐことになっているの」
「じゃあ君は」
「そう。お母様の跡取り娘になるわ」
誇らしげに少女は言った。
「肖像画を見たいの? それだけ? 紅薔薇の夜露は?」
「要らない」
エイルはきっぱりと言った。媚薬を作る予定など、ない。
「あなたには訊いていないわ」
つんと少女は言った。
「それならば私ですか」
ウェンズは少し笑って言った。
「私にも不要です」
「そうね。あなたは素敵だもの。邪な欲望を持って女を籠絡する魔の薬なんて、必要としなさそう」
なかなか、十代半ばの娘とは思えない口利きをして、リティリーザはウェンズをちらりと見た。
「ねえ、あなたが見たいって言うなら、案内してあげてもいいわ」
そう言うとリティリーザはウェンズの正面までやってきて、エイルよりも身長の高いウェンズを見上げるようにする。
「私が、ですか」
ウェンズはまた言った。
「では、お願いいたします、お嬢さん」
動じてねえな、とエイルは思った。美少女、と言い立てるほどでもないが、整った顔立ちを持つ、不思議な雰囲気の娘だ。あなたに興味がありますとばかりに寄ってこられれば、たとえ少女が未成年でも、にやっとだらしなく笑う――もとい、照れ笑いのひとつも出るのが普通の男と言うものである。
(傷跡がなけりゃあ悪い顔じゃないからなあ)
(こういうの、慣れてんのか)
『そうでもないですが』
やってきた返答にエイルは吹き出しそうになった。特にウェンズに向けて何かを言ったつもりではなかったのだ。
『失礼。私に聞かせるつもりではなかったのなら、意識的に閉ざしておいてください。先に術を繋げたばかりで、なおかつこれだけ近くにいると、うっかり聞こえてしまいますから』
(判った)
エイルはこめかみの辺りをかいた。
(あー、悪気はねえからな)
『何がですか』
(「傷跡がなければ」ってやつ)
『たいそうな褒め言葉だと思いましたよ』
(あっそ)
余計な気遣いというものであった。
「じゃあ行きましょう」
リティリーザは嬉しそうに笑うとウェンズの横に並び、その腕を取った。
「私のことは名前で呼んで。あなたのことは何て呼べばいいの?」
エイルは一瞬、それに警戒をした。「エイル」の名を知り、それに縛りの術を投げてきた呪術師コリードのことを思い出したのだ。だが、普通で考えれば意味のない警戒である。エイルは不要な警戒を解き――それ故、ウェンズの返答に少し驚いた。
「ヒサラ、とどうぞ」
「ふうん、ヒサラ」
少女は繰り返すと満足したようにそのまま歩き出した。エイルはそれに付き従う形になる。
(警戒、してんのか。その名前)
背後からこっそり問うとウェンズは否定した。
『生憎と。思い切り本名です』
(何?)
『申し遅れましたが、完名を名乗るなら、私はヒサラ・ウェンズと』
(てめ)
『別に隠していた訳ではありませんよ。姓だけだって本名なんですから』
ウェンズは面白そうに続けた。
『しばらく、姓は使っていなかったんです。神官から魔術師になるときに、その過去と一緒に捨てようかと。ただ、黄泉路から戻ってきた際に、意外にも神を感じましてね。命と一緒に姓も拾って帰ってきました』
敬虔なんだか不遜なんだかよく判らない言いようである。
『あなたと最初に会った頃はこの姓が懐かしくて、ウェンズとばかり名乗っていました。他意はないんですよ』
(別に咎めるつもりじゃないけどさ。それじゃ、どっちで呼んだらいいんだよ)
『どちらでも、お好きに。ただ、私を姓で呼ぶ人は少ないので』
(じゃ、「ヒサラ」のがいいのか)
『いえ、珍しいので楽しいです』
楽しまれていたとは知らなかった、とエイルは肩をすくめる。
(そいじゃ楽しんでくれ。「ウェンズ」で慣れちまったよ)
『けっこうです』
そんなやりとりをしている間に、リティリーザは正面の門まで彼らを案内してきていた。
前には門衛がどっしりとかまえていたが、次代の女主人にちらりと見られると、何も言わずに門を開ける。
(見知らぬ若造ふたりも、勝手に入れていいんかね?)
『よくあること、なんじゃないですか』
(何でそう思うんだよ)
『この子は、ここにやってきた魔術師を案内するような役割を持っているのかもしれません』
(薔薇の夜露、か)
エイルはその話を思い出した。
(媚薬だって? んなもんの材料になるんだったら、世の男どもがこぞって押しかけそうなもんじゃないか)
『その手の魔術薬は難しいんですよ。ほかに手に入れなければならない材料も稀少なものばかりです』
(たとえば?)
『大山脈 の高度五千ゴウズを越えた地にある雪だとか』
(無茶だ)
『虹蜥蜴の尾っぽだとか』
(聞いたことないぜ)
『大砂漠に降った雨粒だとか』
(イフルだな)
『何ですか?』
(そういう伝説があるんだと)
雨神の流した一滴の涙が砂漠に花を咲かせたと言う。その伝説が好きだと言った砂漠の友人を思い出し、だがエイルは首を振ってそれを振り払った。




