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風謡いの首飾り  作者: 一枝 唯
第5話 焦燥と奔走 第4章

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07 確認しておきたいこと

 約束の日まで、一日を切った。

 正確なところを言うならば、十刻を切った。

 エイルは大欠伸をして、目尻に浮かんだ涙をこすった。

 昨夜はろくに寝ていない。

 眠る暇がないと言うのではない。何しろ、塔でできることは魔術の鍛錬だけであり、幸か不幸かそれはやればやるほど上達するというものでもないのだ。

 走れば体力を減らすように、術を使えば魔力を消耗する。体力のない状態で走っても足がろくに上がらないように、魔力の少ない状態で術を使ってもろくな効果はない。

 術をかけつづけることは、術師によい効果を何ももたらさない。筋肉のように、過剰に使うことによって鍛えられていく、といったことはない。魔力が尽きれば意識を失って倒れるだけで、力が増加するようなことは起きない。

 理屈よりは実践、というのは間違いないが、実践もほどほどにしないと数刻へたり込むことになるだけだ。それよりはちゃんと眠った方がよい、ということになる。

 彼はそれを理解していたし、床にもついた。

 だが、うつらうつらするばかりで眠れない。不意に動悸は激しくなるわ、浅い眠りの内で見るのは嫌な夢だわ、散々である。

 不安なのだ。判っている。当たり前だ。

 ――ラニタリスが隣にいた夜、つまり首飾りが鳴っていた夜は、確かに穏やかに眠れていたのだ、と実感もした。

 ともあれ、あとできることは魔術書を繰ったり、首飾りの本物と偽物を並べ立てて細かく観察してみたりするだけだ。

 本の方はそれなりに知識は増えたが、実戦に役立つかは微妙だった。

 首飾りの方は、思っていた通り黄玉や花の位置はほとんど同じ――厳密に言えばわずかに異なったが、少なくとも配置は同じ――で、「違う」と言えるのは合板の幅と鎖の色、そして血痕のような赤黒い斑点だけだった。

(騙せるのかね、本当に)

 エイルは懐疑的である。

 オルエンが「それらしく」術をかけてくれるというのならば、コリードに魔術を見破られることはないかもしれない。魔術の気配があったとて、「それが呪いだ」と判断するだろう。

 だがエイルが気になるのは、クエティスの執念の方だ。

 自分が作った偽物と瓜二つだというのは、商人の自尊心を満足させるものか、それとも疑いを引き出すものか。

 鎖くらいは換えた方がいいかもしれないと思って、アイメアの宝石屋を訪れたのは昨日だ。アーレイドにしなかったのは、万一にもクエティスに知られないようにと思ってである。それ以外ならどこでもよかったが、大きめの都市で、なおかつアーレイドや〈紫檀〉のいるレギスから遠い場所にした。

 よって現状では、ふたつの首飾りに明らかに異なる点はふたつに減っている。

 斑点はなくてもいいが――いや、ひょっとしたらつけた方が信憑性が出るかもしれない。

(ま、そのあたりはオルエンに任せるけど)

 絵の具でも買ってきて色を付ける訳にもいかない。やるとしたらやはり魔術である。

 そんなことをつらつらとやっている内に夜も明け、疲れているような、いないような、気分が高揚しているような、単に緊張しているだけのような、何とも判然としない心持ちで両方の首飾りをしまい込んだところだ。

 塔の一室はいつでも快適で、寒さも暑さも覚えない。そのはずなのだが、何だか身体がべとつくような感じがした。

 エイルは頭を振り、東国へ出向いて水浴びでもしてこようかなどと考えた。

「きりがついたのか」

「きりも何も」

 〈塔〉の声にその主は肩をすくめた。

「『無駄と言わず、三刻に一度は腰を落ち着けて考えろ』ってのがお師匠サマの有難いお言葉でね。できれば母さんの隣でずっと見張ってたいけど、そんなことをすれば『素直に首飾りは渡さない』って宣言してるも同然だし、そうなりゃ向こうがこっちの隙を狙って何かしてくることだって有り得る。明日までおとなしくしてるのがいちばんなんだよ」

 そう言ってきたのはオルエンだった。納得しているとは言えない、不満そうな調子でエイルは〈塔〉に説明をした。と言うよりも、自分に言い聞かせると言ったところか。

「オルエンは今日の夜になったらくるとか言ってたけど、本当だろうな。こなかったらコリードと真っ向勝負になるってのに、判ってんのかよ」

「私に言うな」

 〈塔〉も不満そうに返した。

「くると言ったのなら、くるだろう」

「まあ、そうかもな」

 エイルは皮肉げに唇を曲げた。先日、タジャスにもちゃんときた。エイルが思ったよりも遅かっただけだ。

 その間、何をしていたのかはやはり判らない。エイルも敢えて問い質さなかったが。

 それからエイルがアーレイド城に顔を出したのは、ひとつ確認しておきたいことがあったからである。

 もしコリードが見張っているとしても、何も奇妙には思われまい。どこかでじっとクエティスの連絡を待っているより、苛ついて、或いは気にしてシュアラやアニーナの様子をそっと見に行くくらいが自然のはずだ。

 「アーレイドそのものを敵に回す真似はしない」と考えていることに変わりはなかったが、「不安に思っている」と見せることは悪くないようにも思った。

 もっとも、約束もないのに王女殿下にお目にかかることは本来難しいのだが、いまはむしろ公務を休まれていらっしゃるためにお時間があるようで、彼は城内の伝手(つて)を少し使うだけでシュアラの方から彼を呼ばせることができた。

「調子は?」

 まず、エイルはそれを尋ねた。

「起きてていいのかよ?」

「大丈夫よ。病人という訳ではないのだもの」

 シュアラは少しはにかんだような笑顔を見せた。

「先日は本当に有難う。ランスハル先生がおいでになるまで私についていてくれたのに、私は祝いに対する礼ばかり述べて、きちんと礼を言わなかったのではないかしら」

「んなこた、いいんだよ。それより」

 確認をしておきたいのはこれだ。

「あれ、届いたか。カリアに託したやつ」

「ええ、受け取ったわ」

 言いながらシュアラは胸元に手をやり、首筋の鎖を引っ張って赤い石をのぞかせた。エイルはほっとする。

 何もカリアを疑った訳ではないのだが、王女が身につけるのに相応しくないなどと判断される可能性もあったからだ。

「赤い翡翠(ヴィエル)をこうして首飾りにするのは珍しいわね。翡翠と言えばやはり緑色の方がそれらしいもの」

「緑色のが、よかったか?」

「そんなことないわ」

 シュアラは首を振った。その顔からは幸せそうな笑みが消えない。こういうのは伝染る。エイルは、王女がどうのと言うのではなく、かつて憧れめいたものを持った娘が旦那と幸せな結婚生活を送っているらしい、それが感じられるシュアラの笑みに同調して、幸福感を覚えた。

 と同時に、肝も冷える。

 この幸せにひびを入れるようなことがあっては、ならない。

「ヴァリンによるとね、赤い石は安産のよいお守りになるのですって。加えて、翡翠は守りの石でしょう? エイルに厳しいあのヴァリンが、よいものだから身につけていなさいって言ったくらいよ」

「そりゃ、意外だ」

 侍女頭のヴァリンは「宮廷一怖いご婦人」と言われる中年女性で、下町から上がったばかりの頃、エイルはしょっちゅう説教を受けさせられた。いまでも目をつけられているに違いないのだが。

「ヴァリンだってエイルを嫌っている訳ではないのだもの。礼儀に厳しいだけよ」

「判ってるよ」

 エイルはにやりとした。「迫力のあるおばちゃん」というヴァリンへの印象は初めてのときから変わらないが、シュアラへの愛情故に厳しくしていることは理解できる。そのあたり、ランティム伯爵の執務長と似ているかもしれない。

「何だか不思議な気持ち」

 シュアラは翡翠にそっと触れると言った。

「お前が魔術師になって、アーレイドを離れると言ったのは、二年以上前……もう何月かで三年になるわね」

「そんなもんだな」

 突然シュアラが昔話をはじめたことに少し驚きながら、エイルは応じた。

「あのとき私、お前の旅路が無事であるよう、魔除け飾りを渡そうと思ったの」

 エイルは片眉を上げた。初耳だ。

「思っただけじゃないのよ、お前の顔を知る近衛に命じて、書いた手紙と一緒に持たせたわ。街の門ならば必ず通るはずだから、そこで渡しなさいと」

 シュアラは思い出すように瞳を閉じていたが、それを開くとくすりと笑った。

「でも手紙と魔除けはお前の手には渡らなかった。ずいぶんと早くに発ったのね」

「そうだったかもな」

 エイルはごまかした。兵士が彼を見つけなかったのはほかに理由があるが、それはシュアラには語れない。


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