02 極めつけは、これだ
忘れていた訳ではない。
いや、正直に言うならば、忘れていた。
彼が半ば無理矢理連れ出しておきながら、友人にたいへん申し訳ないことをした、とエイルは心から思う。
すぐに戻るから待っててくれ、などと言って、あれから一刻は、経っているだろうか。
慣れぬ町へ銀色の道を探すのには時間がかかる。エイルは躊躇わず、協会を利用した。
楽である。便利だ。
堕落だが、仕方ない。
「ユファス! 悪ぃ、待たせ……」
息を切らせて――短距離の移動も、やはり慣れた場所でなくては難しい――エイルが墓地に駆け込めば、そこには誰の姿もなかった。
(まあ、そうだよな)
(いつまでもここで待ってるってことも)
友人はどこかの酒場ででも時間を潰しているだろうか、とエイルは思った。待たせたことも悪かったが、これでは「第二陣」に間に合わない。料理長のトルスからユファスが理不尽な叱責を受けることになるかと思えば、ますます申し訳ない。
などと考えたエイルは、ふっとそれに気づいた。
「……何だ、これ?」
微かに魔術の気配がする。エイルは周囲を見回した。
すると、ひとつの墓標が目に入る。彼は警戒をしながらそこへ近づき、不思議なものを見た。
正確には「見た」とは言えないだろうか。それは目に見えるものではなかったからだ。
「何だ、これ」
彼は繰り返した。
それは、駆け出し魔術師が知らない術だった。見知らぬ誰か――もちろん、魔術師だ――の力が球体に渦巻いて、宙に浮いている。危険なものではない。それは判る。
(聞いたことは、ある気がする)
(それとも何かで読んだのかな)
どちらにせよ、はっきり把握しているとは言い難い。曖昧な知識を散らかった頭のなかから懸命に取り出して考えてみることには、それは魔術師が魔術師に向けて残す〈伝言球〉のように思えた。
何らかの事情で、心の声を交わせない場合。
次の手段はたいてい、手紙だ。魔術で封じるか、それとも単に封書を魔術で送るだけか、それは状況と術師の能力によるだろう。
それもできない場合。簡単に言えば、出先で書くものがない場合、など。或いは、文書という形で残したくないということもあるだろうか。
そんなとき、魔力の球を作って、そのなかに伝言を溜めるという方法がある。〈伝言球〉は、相手があとでその場所にやってくることが確実な場合に作られ、残される。
そんなことだったように思う。
つまり、この場合。エイルの知らぬ魔術師は、見知らぬエイルに宛ててこの球を残した。
「何だ?」
とまた言ったのは、今度はその術師と中身に見当がつかなかったからである。だが、エイルに宛てられていることはほぼ間違いない。こんな寂しい墓場にこのタイミングでやってくる魔術師が何人もいるとは思えないし――もし「何人も」いそうであったら、〈伝言球〉を設置するには向かない。
(どうやって、解くんだっけ)
そんなものを使う必要性があるとは思っていなかったから、覚えようとしなかった。エイルは呪いの言葉を吐いて、おそるおそる、球に手を近づける。
(万一、俺宛じゃなければ)
(弾かれる、はずだよな)
そうであっても傷つけられるような強い術を返される訳ではない。弾紐を引っ張って離したように、文字通り「弾かれる」だけだ。
エイルは深呼吸をすると、えいやっとばかりに球に手を伸ばした。次の瞬間に手を引いたのは、弾かれたのではなく彼自身の意志である。いや、意志とは言えなかっただろうか。無意識だ。
彼は驚いたのである。
〈伝言球〉というものに初めて触れたことになるが、それは〈心の声〉を交わすのにとてもよく似ていた。だが「やり取り」でない分、より早い。それは一瞬で、つまり耳で聞いたり、文章を読んだりするよりもずっと短い時間で、全てが明確に伝わった。
エイルはすっと墓標に目をやった。正確なところを言えば、立てられている墓標ではなく、その下に目をやった。青年は盛大に顔をしかめ、嘆息をして――友人が残していった翡翠製の腕輪を拾い上げた。
アーレイドに戻ってユファスに詫びることも考えたが、それは後回しにした。
エイルは砂漠の塔に帰還をすると、水を飲み、食卓の椅子を引く。
「城での仕事だけにしては、ずいぶんと長かったな」
「何だって?……ああ」
シュアラに魔術の話などをしていた、あれはたかだか半日ばかり前である。そうと気づくとエイルは乾いた笑いを浮かべた。
「とんでもない出来事が、連発だよ」
彼はそう言うと、起きたことをかいつまんで〈塔〉に説明した。
クエティスのアーレイド城訪問。シュアラ懐妊の報。スライ師への頼みごと。呪術師。アニーナの前にまで現れた商人。区切られた三日の期限。
不意に現れたオルエン。シュアラに渡した翡翠。ユファスの墓参りへの協力。タジャスにてクラーナ、及びゼレットとの邂逅。偽物屋に偽物を渡すという、何だか納得のいかない計画。
「それに極めつけは、これだ」
言うとエイルは隠しからそれを無造作に取り出すと、指でくるくると回した。緑色をしたきれいな腕輪は、本来の使用用途と異なる扱いに抗議するようにぽんっとそこから抜け出す。エイルは顔をしかめて印を切ると、それを空中で制止させた。
「ほう、上手くなったな」
「ほかに言うことはないのか、ほかに」
「何を言えと?」
人間であれば肩をすくめそうな調子で〈塔〉は言った。
「また預かりものが増えたようだな、とでも言えばよいか?」
「まさしく、その通りだ」
エイルは今度は現実に手を伸ばして、翡翠製の腕輪を掴むとまた卓に置いた。
「ユファスが手放したのは、まあ、いい。だからって、何で俺が預からにゃならん?」