03 そんな冗談があるもんか
「東?」
エイルは繰り返した。
「東ったって、広い」
大砂漠までは含めないとしても、広い。
「西と言われるより、狭いよ。ここは中心部よりも東だもの」
大砂漠までは含めないとしてもね、と言ったクラーナはエイルと同じことを考えたらしかった。
「だから、大したことじゃないって」
詩人は肩をすくめ、窓の外を見た。
「僕はもう、ここでは何も掴めないだろうと判断したんだ。それで、ここを離れるつもりになった」
「どこへ行くんだ?」
「当てはないよ。何にも」
クラーナは肩をすくめる。
「けれど、風向きは変わるもの。停滞していた風はいつか必ず動くんだ」
詩人はそんな言い方をするとすっと窓の方を見た。
「ガルのこと、覚えてるかい?」
「一緒にいた戦士だろ」
「そう。彼は、以前にやっていたような旅戦士の暮らしに戻ろうとしている。それならひとつ、僕は彼を雇おうと考えた」
「雇う? 何に?」
「以前にも話したけれど、ガルはまるで冒険歌そのもののような生活を送っていたんだ。ある意味、君もそうだけれど」
「俺は違うよ」
「そうだね、少し違う」
詩人は笑った。
「彼は特殊だ。そして、エイル、君はものすごく特殊だ」
「あのなあ、それを言うならお前だって」
「僕の物語は、言うなれば前奏曲。主題は君だったんだから」
詩人は何とも詩人らしい言い方をした。
「こう言うと君はとても嫌がるだろうけど」
と、クラーナは前置いた。
「そういった運命を持った人はね、一生、それから逃れられないものなんだ」
「……おい」
「まあ、怒らないで。僕が言うのはガルの話だから」
いま言っているのはね、などとクラーナはつけ加え、エイルはそれを睨んだ。
「ガルは、不思議な冒険奇譚と言いたくなるようなものを日常にしていた。幸か不幸か、彼は特にそれを嫌がらないみたいだけれど」
それにはエイルは黙っていた。「俺は嫌だ」と即答する段階は過ぎたように感じていた。反論がなかったことをどう思ったか、クラーナはそれについては触れずに続けた。
「彼は、冒険物語のなかに帰る。判るかい? 不思議な物語は彼に吸い寄せられるように集まっていくんだ」
それが彼の性質なんだ、と詩人は言う。
「つまり、僕はその性質を利用させてもらう」
「何だって?」
意味が判らなくてエイルが問い返せば、ゼレットが、ふむ、と言った。
「ふたりの魔術師というのは、片割れが例の首飾りに呪いをもたらしたというあれだな?」
エイルは何故ゼレットがその話を知っているのかと一瞬訝ったが、クラーナとともにギーセスの館に滞在しているのなら話を聞いていても当然だとすぐに気づいた。
「当てのないものを追うならば……何かしら寄せ付ける定めの男が隣にいれば、便利だな」
「……成程」
判ったような気がした。
「もちろん、これは〈大砂漠に赤い砂を探す〉ようなものさ」
クラーナはそんなふうに言った。
「でも、砂漠に出かけないで『赤い砂が見つからない』と言っていても仕方がないだろう?」
吟遊詩人は片目をつむった。
「僕は行くよ、エイル。『風謡いの首飾り』の歌を積極的に歌いながら旅をしよう。何かに近づけば、きっと、何かの方で寄ってくる」
「有難いけどさ。……危険って言うか、何か、変なものが寄ってきたりすることだってあるかも」
コリードの襲撃の際はクラーナだって一緒にいたし、「首飾りの歌を歌う詩人」かつ「エイルの知り合い」と認識されている。だが具体的な話をすればゼレットに追及されそうなので、エイルは曖昧に言った。
「ガルがいれば大丈夫だよ」
まるで楽天的な発言のような調子でクラーナは返した。もちろん詩人だって危険な魔術師のことは判っているはずで、それでも大丈夫だと彼が言うのならば信じてみようかという気持ちになる。
「それなら、反対する謂われは、ないけど」
協力をしてくれるというのだ。「当てのないこと」をやってくれると。何の得にもならないと言うのに。
「言っておくけれど、無償奉仕じゃないよ」
エイルの心を読んだかのように、詩人は澄まして言った。
「もちろん、君に報酬を要求したりはしないけれど。歌物語の題材みたいな出来事に出会える、出会おうと追いかけることは、詩人の喜びだからね」
そんなものか、とエイルは思った。〈損を申し出る者には必ず得の勘定がある〉と言うが、クラーナの「得」はそれなのだと言う。
「でもエイル。オルエンの居所を気にしているね? 彼が行くと言ったところに行かなかったことが、そんなに気になる?」
「そりゃまあ、あの野郎の言うことは信用ならないと思ってたけどさ」
エイルは頭をかいた。続く台詞はあまり言いたくないが、公正に考えて言わなければならない。
「いまは……俺を助けてくれるって言ったこと、疑ってないんだ」
「助ける? オルエンが、君を?」
「何と。俺には手やら口やら出すなと言って、その何とか言う男には助力を乞うているのか。何者だ、それは」
「ゼレット様は黙っててくださいって言ってるでしょうがっ」
不満そうに飛んできた声にエイルはぴしゃりとやった。
「オルエンはエイルの魔術の師匠ですよ、閣下。あなたが権力でも剣でも愛情でも助けられない部分で、彼を助けられます」
「……むぅ」
それには何の反論もできないようで、ゼレットはむっつりと黙った。エイルとしては、三つ目のたとえが不要だと思ったが。
「俺、奇妙な不安を感じて。それで、ここまで跳んできたんだけど」
自分だけの力で、という部分は抜いた。クラーナやゼレットに話しても仕方のないことだと思ったというのもあるが、単純に、言わなくても意味が通じると考えたせいもある。
「もし、オルエンが……こようとしたのにとめられて、これなかったなんてことが、あったら」
「まさか」
クラーナは笑った。
「いったい、誰がそんな」
「まさか」
今度はエイルが、はっとなった。彼は思い浮かんだことをそのまま口にしてしまう。
「あいつ……まさか、レンに追われてるんじゃ」
「何だって?」
「何だと?」
その地名が呼び起こした反応は鋭かった。エイルはまたもはっとなる。
「あっ……その、いや、嘘です、冗談。何でもないです」
「そんな冗談があるもんか、エイル、君いったい」
「あれが関わっているのか? ならば放ってなどは」
「何でもないですったら! ちょっと思っただけです、んなこと、あるはず、ない」
言いながら、エイルは記憶を思い返した。
〈風読みの冠〉を狙う魔術師がいると聞いたとき、エイルはオルエンに尋ねたことがあった。まさか〈魔術都市〉レンが関わってはいないかと。
そのとき師匠は、こう答えた。「いまや、あの王家にそんな暇人はいない」。
それはオルエンなりの皮肉だとエイルは思っていた。かつては、「そんな暇人」がいたという訳だ。暇つぶしで狙われたのだとしたら、それはもう、エイルとしては盛大に文句があるが、オルエンの冗談の一種なのだろうと。
だが、もし。万が一。あれが違う形の皮肉なのだとしたら?
もし、「レン王家はオルエンという男を追うことで忙しくて、ほかのことをする暇がない」というような意味が隠されていたなら?
それに、コリードが「動物の彫り物をしていなかったか」確認をしてきたとき。オルエンがアーレイドに現れたことでコリードが去ったと――どこかに報告に行ったと考えたのでは。
加えて「厄介な女」。
魔の山がどうのと言っていたが、もしかしたらそれはごまかしかもしれない。
レンの支配者は女王――それをして「厄介な女」と言ったのではないか?
そんなことを考えると、エイルはすうっと血の気が引くのを覚えた。
「――そうだね、考えてみれば、そんなことはないだろう」
だが、エイルの脳裏に浮かんだこととは裏腹に、クラーナは思い出したように言った。
「彼はレンの女王と和解したはずだ。僕にはそう言っていた」
「まじか?」
エイルは目をしばたたいた。初耳である。
「和解だと? 何者だ、そのオルエンと言うのは。聞いたことのあるような名だが」
「彼は」
クラーナは躊躇うようにした。ゼレットはその名を知っていたはずだが、直接的に彼とは関わらなかったため、ぱっと思い出すことはないようだ。
「……閣下には、関係のないことですよ」
思い出さないのならばそれでよいとばかりに、クラーナは答えた。