02 きてないのか
タジャスの町は、ウェレス王の領地の北端近くにある。
その領主たる男爵ギーセスの館は街の中心からやや南寄りに建っていた。小さかったがしっかりとした造りをしており、手入れも行き届いていて、「古びている」という感じはしない。
ギーセスの親しい友人――当人同士はただの知人だと言い張る――ゼレットが「俺の連れだ」と言ってエイルを連れれば、兵士たちがそれをとどめるはずもない。エイルは何の問題もなく、その館内を歩くことができた。
「時間は、あるのか」
ゼレットの問いにエイルは苦笑など浮かんだ。
「正直に言えば、ないです。ものすごく」
「そうか」
ゼレットは短く答えたあとで、ふむ、と言った。
「ならば、ギーセスのような暇な病人の暇つぶしにつき合う訳にはいかんな。あやつには黙っておこう」
「……ギーセス閣下は、ここの主、ですよね」
「位は俺の方が上だ。文句など言わせん」
どうにもとても仲がよいとしか思えぬ悪友ふたりの間でそのような地位を笠に着た物言いが存在するとは思えなかった。おそらくこれはゼレットの――というより、彼らの間の冗談に過ぎないのだろう。
「いったい、ゼレット様の親友がどんな方なのかは気になりますけど」
「とんでもないことを言うな。ちょっとした顔見知りにすぎん」
「はいはい。ゼレット様のちょっとした顔見知りがどんな方なのかは気になりますけど、長々とご丁寧なご挨拶は、いまは避けたいってのが本音です」
エイルの答えにゼレットは大いにうなずいた。
「そうであろう、そうであろう。そうあるべきだ」
これは幸か不幸か、「エイルをギーセスに会わせたくない」ではなく「ギーセスにエイルを会わせたくない」だ。つまり、伯爵閣下の心理としては、自分が可愛がっているエイルを見せてなどやるものか、ということだ。あまり嬉しくない。
だいたい普通は、誰かを招き入れるなら主の許可を得るのが常識とか良識とかいうものだ。〈礼を失った親子〉という言葉は、肉親の情に甘えて勝手気ままをした娘が母の病と弟の死を呼び、ついには苦渋の決意をした父親に殺されるという悲劇からきている。
そこまで持ち出さなくとも、このゼレット・カーディルという男は貴族だ。いくらか奔放でも、伯爵閣下なのである。たとえ心がこもっていなくとも、礼儀作法の類はエイルよりも身にしみついているのが当然で、反射的、いや言うなれば本能的にそういうものが出る種族であるのだ。
それがわざわざ、この言い様。
普通ならば「余程仲が悪いのか」と思うところだが、この場合、逆だ。ゼレットとギーセスという男爵は、思っていた以上に親しくあると思っていい。
(逆さま精霊とかってのがいたよな)
それは、何でもかんでも逆のことを言ったりやったりする、悪戯ものの精霊だ。〈嘘つき妖怪〉との違いは、後者には他者を混乱させる意図があって前者にはないという辺りだが、意図がなければ罪がないというものでもない。
「……もう一度言いますけど、ゼレット様と遊んでる時間も、ないんですよ」
「何。俺は遊びのつもりなどはないぞ」
案内するように歩いていたゼレットは振り返ると片眉を上げた。
「俺は、お前に対しては、いつでも本気だ」
「そういう話でも、ありません」
エイルが言えば伯爵はつまらなさそうな顔をした。
ともあれ、ゼレットの評判だの世間の常識だのを気にしなければ、誰何されることなくすぐにクラーナに会えるというのは最上である。前回は「招かれている詩人の友人だ」で通ったが、ゼレットがいなければ今回はどうなったか判らないのだから。
「クラーナ。――リーン、いるか。俺だ」
ゼレットは軽く客室の戸を叩くと、許可の出る前にそれを開けた。
「あれ、ゼレット閣下。どうされたんです」
吟遊詩人のきれいな声が意外そうな色を帯びた。
「もしや、また僕に『行くな』と言いにこられたんじゃないでしょうね。まさか何か妙なことを考えていらっしゃるんでしたら念のために言っておきますけど、僕は男ですよ」
「何の。このゼレット、女しか口説かぬような狭量さは持たぬ」
平然とゼレットが返すとクラーナは笑ったようだが、エイルは嘆息をした。
「誰かいるんですか?」
それが聞こえたか、クラーナは尋ねる。ゼレットは肩をすくめて部屋に入った。
「お前でなければ、もったいなくて見せられんところだ」
「俺は見られたって減りゃしませんよ」
言いながらエイルも戸口をのぞき込む。
「……エイル?」
クラーナは驚いたように目を見開いていた。
「どうしたの?」
「伝言、したろ」
「したけど、別に急ぎじゃないから……ああ、君の方で、何か僕に急ぎの用でも?」
言ってからクラーナはにっこりと笑った。
「まずは、そんなところでつっ立ってないで、入ってくれよ。ゼレット閣下と私室でふたりきりになんてなりたくないんだから」
「何。俺を何だと思っとるんだ」
「油断ならない人です」
詩人は即答してエイルの喝采とゼレットの不満そうな視線を受けた。
「もっとも、閣下にはそれだけの魅力がありますからね、押し続けられたら『閣下ならありかな』なんて思ってしまうことも起こりそうです。僕はお断りしますが」
言うと詩人はちらりとエイルを見る。全く同感、お断りもいいところだと青年が大いにうなずけばクラーナはまたにっこりと笑む。
「エイルはどうでしょうね」
この裏切り者、とまでは言わなかったが、かなりそれに近いことを言いながらエイルは部屋に入ると戸を後ろ手で閉めた。
しかしこれ以上、雑談で潰せる時間はない。青年は伯爵に隙を見せないようにしながら吟遊詩人に向き合った。
「オルエンは?」
開口一番はそれだった。クラーナは目をしばたたく。
「オルエンが、何だって?」
「タジャスに行くって言ってたんだ。あんたに話を聞くとかって」
「話って……ふたりの旅の魔術師のこと?」
たぶん、などとエイルが曖昧に言えば、クラーナは首をひねった。
「何が彼の気にかかったのかな」
「俺だって判ってない。もしかしたらコリードについての話より重大だと……踏んだんじゃないか、な」
呟くように言ったエイルは、「コリード」について問い返すクラーナの言葉に曖昧な声を返した。それは、何もクラーナをごまかそうとしたのではなく、何かが彼に触れたからだ。彼をタジャスへ跳ばした不安、その理由の一端を掴んだような気がしたのである。
「あの爺はきてないのか。会ってないんだな?」
「ないよ。有難いことに、『君とはもう二度と会わない』と言ったあのときから」
不意にエイルはどきりとした。脳裏に反復されたのは、「ランティムには二度とこない」と言った自身の声。
「もしかしたらその台詞を気に……するような素直さがあるなら、可愛いもんだけどさ」
クラーナは肩をすくめた。
「きて、ない」
エイルは――クラーナとオルエンを結び、エイルとシーヴを結んだ線について考えることはとりあえず避けて――繰り返した。
「変だ」
エイルは言った。
「あれから、半刻は経ってる。オルエンなら一瞬でこれるはずだ。もし、ほかに寄るようなとこがあるなら」
ふと「魔の山の厄介な女」のことが思い出された。まさか、助力を申し出ておきながら、女を口説きに寄り道でも?
だがエイルは首を振った。
感情的に考えるなら、オルエンならやりそうだ、とも思う。
しかしそれでは納得がいかないのだ。
先にエイルを訪れた強烈な黒き予感とでも言うもの。〈移動〉を後押しした焦燥感が何かの勘違いだとでも――?
「何の話だ」
ゼレットが口を挟んだ。
「オルエンだのコリードだのと言うのは何だ。俺にも判るように説明しろ」
「ゼレット様には関係ないです」
「つれないことを」
「言いますよ。だって、関係ないんですから」
エイルが続けざまに即答するとゼレットはうなった。
「いいから黙っててください。俺は、クラーナと、話をしてるんです」
きっぱりと言っておかないと、どこでどう口を挟んでくるか判らない。
「オルエンは、きてない」
彼は三度繰り返し、考えるようにした。魔術がもたらした頭痛はやんでいたが、何となくぴりぴりするような感覚が残っていた。
「クラーナ、そのふたりの魔術師については何か判ったのか」
「残念ながら、大したことは」
詩人は首を振った。
「『大したこと』じゃなくてもいいよ」
何であっても知っておきたいとエイルは思った。何が重要になるのか判らない。
「魔術師協会に頼み込んで、と言っても僕みたいなただの旅人がお願いしたって埒があかないから、ギーセス閣下がやってくださったんだけど」
クラーナはまず、そんな説明を加えた。協会は権力におもねらないとは言え、領主との関係が良好であれば、優先的に話を聞くくらいのことは行うらしい。
「残ったひとりがどうやら東へ行ったようだ、というのは判ったよ」