12 それはもちろん
ぐらり、と視界が回ってエイルは目をしばたたいた。
足は間違いなく、大地を踏みしめている。
だが、バランスが取れない。まるで〈回り駒遊び〉をしたあとのようにくるくると世界が回る。酒をたくさん飲んだあとのよう、でもいい。高熱のあるときのようだ、でも。
視界が歪むほどの目眩。それから、頭痛と、吐き気。
エイルは重力の命令に逆らいきれずにそのまま膝を折ると、春先のぬるい土の上に倒れ込んだ。
(うげえっ、何だ……これ)
(決まってる、いまの〈移動〉のせいだ)
ぐらんぐらんと回る世界から逃れようときつく目を閉じたが、頭を殴られているかのような頭痛は消えない。吐き気を覚えはするものの実際に吐くにまで至らないのはよしあしだ。吐くことで却ってすっきりする、というようなことも生じないからである。
(うう……酷え)
(こんなの、初めてだ)
身体に力が入らない。ただ立ち上がるだけのことすら、もってのほか――というようなそれは泥酔した感覚と似ていたが、エイルはそれほど酒を飲むことはなかったから、このような状態は本当に初めての経験だった。
(起き上がれない……クソッ)
手足が自分のものではないようだ。動きたいのに、動けない。
(気持ち、悪ぃ)
はじめて、単独の力で長距離の移動をこなしたことに対する喜びも驚きも或いは怖れも浮かび上がる暇がない。
(誰か)
(クソッ、誰かいないのか。手……貸してくれる奴は)
自分がいったいタジャスのどこに倒れ込んだものか、よく判らなかった。
土の上という感触があるから、うっかりと大通りなどに魔術で現れたということはないようだ。怖ろしがった町びとたちが彼を遠巻きにしていたりはしない。
かと言って裏路地であったとしても、エイルは先に協会を利用したときのまま、黒ローブなど身につけている。つまり、誰かが通りかかったとしても、倒れているのが「怖ろしい」魔術師であることはあまりにも歴然としている。そうなれば、普段は親切な人間であっても忌まわしさにおののいて、助けの手などは伸べないかもしれない。十二分に有り得る話だ。
となると、エイルを助けてくれる人間はふたりしかいない。
男爵の館にいるはずの――いや、発とうとしているらしいクラーナか、或いはここを訪れると言っていた、オルエン。
朦朧とした意識のなかでも、できれば前者に助けてもらいたい、とエイルは思った。
冷静に考えれば、彼の状態を癒せるとしたら魔力を持たないクラーナよりもエイルに何が起きているか判るオルエンの方が助けになるはずだが、「オルエンに助けられたくなどない」というこれは、もうほとんど反射的な思考である。
(少し……楽になってきたかな)
エイルは呼吸を整えながら考えた。吐き気は少しずつ収まり、うっすらと目を開けてみれば目眩はまだ覚えるものの、ぐるぐると回るという感じはしなくなった。頭痛は、変わらず破鐘のようだ。
(どこに、出ちまったんだ)
彼は考えた。
先にクンディムの町で銀色の筋が見えた瞬間、何も考えることをしないでそれを思い切り掴んだが、正しい〈移動〉をするならばもう少し落ち着いて、出現する先を明確に意識して照準を合わせるべきだったのだ。その辺りは〈塔〉の力を借りるときと変わらない。
(ちょっとばかり迂闊だった)
アーレイドで短距離の移動をしたときに、気をつけなければならないと思ったばかりであった。
(〈塔〉や協会にばかり頼っているから、か)
師匠の言葉を思い出す。
(鍛練を積まなきゃ、な)
魔術への嫌悪は、浮かばなかった。「努力をしよう」と思うことに対する苦い思いも。ただ、どうやら自分には力が足りないな、と今更のように思うだけだ。
だがそれにしてもここはどこだろう、とエイルは思った。タジャスであることだけは間違いない。それを誤りはしない。大通りではないことも確かだが、ならばどこかの小路という感じもしなかった。
王城都市であればともかく、小さなタジャスには舗装されていない小道も多数存在した。だが、建物と建物の間であるなら壁でも目に入るはずであるし、何より、踏み固められた固い大地であるはずだ。
その土は、柔らかい。まるで、どこかの庭のよう。
そんなことを考えながら、エイルはゆっくりと身を起こしてみようと試みた。
その、ときだった。
不意に、背後に気配を感じた。と思うとぐいっと右腕が掴まれる。
はっとなったときには、もう遅い。うつぶせになっていたエイルはそのまま腕から持ち上げられると、背後から羽交い締めにされる。
(何――)
下町育ちであるエイルは、たとえ治安のよい街であっても人混みのなかでは自身の財布の在処に必ず気を払うようにしている。
だが、黒ローブを着ていれば、どんなに治安の悪い場所であっても、狙われることなどまずない。となると、いささか気は緩みがちになる。まして時刻はまだまだ昼、ただの旅人の金を狙う不埒者ですらいなさそうなのに、魔術師に目を付ける輩などは普通いない。
加えて、この状態だ。
苦しそうに倒れ伏していた人間――魔術師であろうとなかろうと――を介抱するより先に、「これはいい獲物だ」とでも思った人道にもとる盗賊――盗賊に人道を要求するのもおかしな話であるが――などが、よりによって、いま、エイルの背後に現れたと言うのだろうか!
「どうやら、本物だな」
「な」
その瞬間、彼からは目眩も頭痛も吐き気も消し飛んでいた。その代わりと言おうか、聞こえた呟きに、エイルはさっと血の気が引くのを覚えた。というのもこの状態、いやこの体勢は、あまりにも、まずいからだ。
「な」
彼は半ば呆然として、どうにか言葉を続ける。
「何で、ゼレット様がここにいるんです!?」
エイルは偶然にも、この地でこの伯爵を目にした吟遊詩人とほぼ同じ台詞を吐いたが、それに対するゼレット・カーディルの返答は異なった。
「それはもちろん」
その顔は見えないのに、エイルには伯爵が満面に笑みをたたえているのが判った。
「お前に会うためだ、エイル」