04 忌避していた魔力に
シーヴを怒鳴りつけたレギスの夜が、ずっと昔のことのように感じた。
〈偽物屋〉の女長との邂逅や、シーヴが嘘八百を長ダナラーンに信じさせようと発した、戯けた、最悪の、ゼレットだって言わないような嘘一万でさえ、少し苦笑を伴う程度の――まるで「いい思い出」だ。
「悔やむな」
師匠は静かに言った。
「振り返っても、道はひとつだ」
「判ってるさ」
エイルは何度も瞬きをし、瞳を乾かそうとした。
友と会わぬことに決めたのだと言って、感傷的な気持ちになってどうする。
彼は、男が涙を流すなどみっともないなどと思うほど硬派ではなかったが、少なくとも格好よくはないと思った。
それに、いくら周囲に話が聞こえないとは言え、いやそうであればむしろ、オルエンのような美青年――には、エイルにはどうにも見えなくなってきているのだが――の前で泣いている若者など、まるで別れ話を切り出されたとさえ見えかねまい。
「彼はお前に力を与えたかもしれん。だと言うに、離れた、か」
その言葉にエイルは数分ぶりくらいにオルエンの顔を見た。
「力って、何だよ。〈変異〉の間のことならとっくに終わってるだろ」
「そうではない。それだけではない。ふむ、力を得たからこそ、分かれたということかもしれんな」
オルエンはひとりで納得するように呟いた。
「それもよいのかもしれん」
そのあとで師匠はそう言った。
「もし私とクラーナの間に何らかの問題があるとすれば、それは即ちお前とシーヴ青年にも起こり得る問題だ」
オルエンはどこか遠くを見るような目つきをした。
「気に病むな。後ろを振り向けば、どう見たって道は一本だ。行った選択を悔やむことに未来を変える力があるとでも思うなら、試してみてもよいが」
オルエンの言葉は厳しく聞こえたが、不思議と叱責の色は見られなかった。
「そして道の先。忌々しき未来というもの。道はひとつとも言い、幾重とも言う。どちらが真実か。どちらかが真実なのか? 答えを知るのは神のみか。名を失いし九番目の神〈導き手〉ならば正しき道とやらを示してくれるか?」
ふん、と師匠は鼻を鳴らした。
「誰も答えなど持たん」
エイルは少し驚いていた。
オルエンの調子はいつもとよく似ていたが、決して同じではなかった――少なくともエイルにはそう思えた――からだ。
外見は二十代半ばの美青年。黙っていても、いや、黙っていれば、この顔に騙されてうっとりとなる女は数えきれないほどだろう。
口を開いたが最後、そのよくできた陶器人形のような雰囲気は不思議なくらい完璧にかき消える。エイルほど彼を知る者でなければやはり美しいとは見えようが、それでも生身だと見える。
傍から見ればそれは、年下の青年に判ったふうな口をきく、やはり若造としか見えないかもしれない。だが、その薄灰色の瞳と視線が合えば、その肉体ではなくそこに宿る魂とでもいうものが深い深い年月を重ねていることに気づかざるを得ない。
だと言うのに、このときのオルエンは、まるでその肉体年齢相応に若く見えた。まるで――力なき自身に歯がみするような。
「つまらぬことを言ったようだな」
しかし次の瞬間、そう言って苛ついたように手を振ったときには、オルエンはいつものオルエンだった。エイルは一瞬、何らかの魔法でも見ていたような気持ちになった。
オルエンが魔術を行使したというのではない。それは言うなれば時の魔法。〈名の知れぬ時の神〉がほんの悪戯心で、エイルの前に二十五歳の頃のオルエンを垣間見せたかの、ような。
もちろん実際には、二十五歳のオルエンはいまと違う顔と身体を持っていたはずであるから、神の御業という訳でもなかったのだろうが。
「力なんて、要らないよ」
エイルはそうとだけ、答えた。
だがそう言ってから青年は下を向いた。
力など要らない。
彼はたいていにおいてそう思ってきた。
下町時代――遠くなりにけり――はただ一度の予言を除いては不思議なものに縁などなかったから、魔術的なものを求めることはもちろんなかったが、腕力とか、〈みみずの縄張り争い〉的なもののために権力めいたものを欲したこともまた、なかった。
思いがけないものを背負わされた一年間も同じだ。彼は一度だってあの「人ならざる時間」を楽しんだことはない。
そして魔術師となってからも、オルエンと〈塔〉に何だかんだ言われても「立派な魔術師になるために精進」しようとは――したいとは思わずにきた。
それが、いま。
非情な魔術師と理屈の通じない商人を相手取って、彼は力を欲しては、いないだろうか。
あの不可思議な存在だった一年間、彼を覆い、ビナレス地方、いやファランシア大陸の魔除けを守った日々、かの崇高なる〈女王陛下〉に借り受けた力があればとは、思わなかっただろうか――?
「エイル」
静かに発せられた声は、いつの間にか青年の肩に入っていた力を抜く効用があった。
「お前が、野心のために力を求めるとは思わん。お前が強くなりたいと思うならば、それはかの騎士のごとく、守るべきものを守るため。――誰のどのような危機に対して、お前はあれほど忌避していた魔力に手を伸ばすように、なった?」
その問いはやはり静かだった。面白がったり茶化したりする様子はオルエンの声にも顔つきにもなく、外見上の若ささえ、ふと翳ったかのようだった。
「母さん。シュアラ。ラニタリス」
エイルもまた、何か冗談ごとを口にするのはやめ、素直に言った。「サラニタ」ではない「ラニタリス」の名をどう思ったにせよ――或いは既に知っていたにせよ――オルエンは特にそこには触れなかった。
「あとは、何かあった訳じゃないし、たぶん何もないけど、レイジュ」
普段ならば言えばからかわれるようなことまでわざわざつけ加えたのは、本気で話そうと思っているため。エイルも、オルエンも。
「成程な」
案の定、師匠はにやり笑いを浮かべることすらせず、むしろ嘆息をした。
「話して、みろ」
彼と彼の大事なものを脅かす存在について。
エイルは奇妙な緊張を覚えていた。
状況を思えば、彼は師匠の助力を期待して安堵してもいいはずだ。オルエンは簡単に手を貸してくれる師匠ではないが、エイルが本当に困っているとなれば、あっさり見捨てもしない。少なくともそういう――ひねくれているがねじ曲がってはいない――性格だと弟子は考えていた。
つまり、この状況において、エイルはオルエンの助けを得られると考えるのが自然だ。
だと言うのに、青年魔術師が感じていたのは緊張だった。爪先から足先から、ぴりぴりと、まるで雷神の子ガラシアが乗り移ったかのよう。
その緊張は集中力を生んだ。
エイルはひとつ深呼吸をすると、しっかりと筋道を立てて、起きた出来事をオルエンに語りはじめた。