02 いまの、なし
エイルはほとんど無意識のうちに胸元に手をやった。リック師の残した魔除け飾り。エイルと相性のいい、翡翠石。
一瞬、身体が焼けるように熱くなる。エイルはどきりとした。〈塔〉の力を借りるときにはこんな感覚はない。魔術師協会同士を跳ぶときには少しもわっとした感覚を覚えることはあるが、熱いと思ったことはなかった。
(何か、失敗――)
不安が渦巻いた、そのとき。
突然、足もとが滑る。
「うおっ」
熱い感覚は失せ、そこは別の小路であった。目標に違わぬ中心街区だ。
「……うまくいった、のか」
エイルは石の敷かれた地面に尻餅をついた状態で呟く。
「……そっか、少しだけこっちが低かったんだな」
気づいて、ぞっとした。低かったから、転んだだけで済んだのだ。高ければ、足を地面に同化させてしまったかもしれない。考えが足りなかった。
(ひとりで跳ぶ、ってのはこういうことなんだ)
初めての行為だという訳ではない。だが、これまではちゃんと時間をかけ、杖を手にし、丁寧に印を切り、更に〈塔〉の助力なり助言なりを受けて術を行っていた。こんなふうに、言うなれば反射的、或いは衝動的に移動の術を使ったことはなかった。
そして駆け出し魔術師は知る。彼は〈塔〉や協会が丁寧に石が敷き詰めた道をしか、歩いたことはないのだ。
(やべえやべえ、洒落にならんことになるところだった)
(〈大街道だけが道に非ず〉だな、まじで)
「何をへたりこんでおるのだ」
「はっ?」
呆れたような声にエイルは目をしばたたいた。
「高さの調節を誤ったのだな。情けない。〈塔〉や協会にばかり頼っているからこういうことになる」
「――オルエン!」
座り込んだ地面から見上げれば、そこには白金髪の美青年の顔を持った老魔術師が両腕を組んで立っていた。
「んじゃ、ラニが俺を呼んだのは」
「そうだ。私が呼ばせた」
「てめえで呼べよっ」
「何を言う。鳥と言葉を交わす訓練も、こうして短距離の移動をする訓練も、どちらも積めたろうが」
後者は少し失敗したようだが、と続く。
「ちょい待ったっ! ラニは? あいつ、魔術師を見張ってたんだ。あんた、まさかそれを引き離して俺を呼ばせた訳じゃ」
エイルはがばっと立ち上がって言った。オルエンは首を振る。
「主人の命令に逆らわせるようなほかの指示は出せん。魔力で無理強いをすれば別だが、私にそこまでやる理由はない」
「ついさっき、行っちゃったの。消えちゃった。エイル、ごめん。追っていいのかどうか判らなくて」
ぱたぱたと羽音が肩にとまるとそう謝罪した。
「あー……そうか、俺、そこまで明確に指示してなかったよな」
「見張れ」「気づかれるな」とは言ったが、見張れなくなったときにどうするかまでは言わなかった。
「お前は悪くない、ラニ。いまの場合、俺の失態」
「コリード」は魔術でどこだかに跳んだということなのだろう。行ってしまったものは仕方がない。追うことを考えるとしても、あとだ。
「ほう?」
オルエンは片眉を上げた。
「なかなかに成長したようではないか?」
「魔鳥の主として、かい?」
エイルは唇を歪めた。
「だが、気をつけろ」
「あん?」
「それは魔物だ、ということを忘れるな」
「忘れる訳ないだろ、こんな強烈な事実」
顔をしかめて彼は言ったが、オルエンは首を振る。
「それでも、だ。人の子の姿を採ることが情を呼び覚ますためとも思わんが、獣の姿であるよりは『人のように』感じてしまいがちだ。判っているつもりであってもな」
「まあ、『たまにしか見ない』ならそういう感じにもなるかもだけどさ」
少し皮肉を込めて、エイルはそう言った。
「日々接してりゃ、思わないって。ってか、そんなことよりいろいろあったんだよ。誰かさんが人に厄介ごと押しつけて雲隠れしてから」
「厄介ごと」
はて、と師匠は首を傾げた。
「何が、厄介だった」
「あのなあっ、そうだ、訊いときたかったんだぜ。何で、あれがエディスン王子だって報せなかったんだっ」
何だかとても昔の話のようだが、せいぜい、ひと月半かそこらだろうか。だがその間に起きた出来事は膨大である。エイルはあのときの怒りを呼び覚ますことに苦労した。
「ああ、そのことか」
オルエンは肩をすくめた。
「言えば、助けに行くだろうと思ったからな」
「言われなくても助けに……何だって?」
反論をしかけて、エイルは顔をしかめた。オルエンが言ったのは、エイルが考えたことと逆だ。
「何も、私が放り出した若者をお前が助けに行く必要はないと思っておったのだ」
「なっ、何だよそれはっ」
エイルは怒鳴った。
「放っておけばよかったって? 見殺しにすればと?」
「私が余計な愚痴を言ったからだな」
「愚痴だあ?」
エイルは両の拳を握りしめた。
「あれが何かの作戦じゃなくて、本当にただの愚痴だったとでも言うのかっ!?」
「作戦だと? 私を何だと思っとる。お前を独楽のようにくるくると回して楽しんでいる〈困らし悪魔〉だとでも?」
「似たようなもんだろうが。ってか、そのものじゃないのか、実は」
「失敬な。私はごく普通の人間だと何度言えば判るのだ」
「何度言われたって納得できるようなことでもないんだよ」
エイルは唇を歪めた。
「だいたい、あんた、本当に王子を見殺しにするつもりだったのか?」
言いながら拳を握り直す。「王子だから」という問題ではないが、王子でないよりも王子である方が発生する問題は多く大きい。
「私は手を出さないつもりではいた」
「それはつまり、だから、俺を使ったってことになるんだろうが」
「お前を使う気などなかったとも」
オルエンは東の方を見た。
「彼には守りがあったから、おそらくは放っておいてもラスルに助けられたのではないかと思う。民たちは何も知らずとも、彼らを結ぶ絆を感じ取っただろう」
「……んじゃ何か? あの日の俺の苦労は無駄だったと?」
エイルは握っていた拳を落とした。
「そうでもなかろう。ラスルが見つけるまでには王子は死にかけただろうし、そうなれば西へ戻るのも遅れたはずだ。となると彼らの運命は酷く狂ったろうな」
「狂っただって?」
エイルは聞き咎めた。
「じゃああんたはやっぱ狂わせないように俺を使ったってことじゃないのか」
「そうではない。言い方がまずかったか。私は、それが正しいの間違っているのと言うつもりはない。結果として今日がある、それまでの道が正しいか誤りかなど論ずるのは無意味だ。世の中には一種類の出来事しかない。即ち『起きたこと』だけ」
オルエンは「道」をなぞるように中空に指を走らせた。
「私の愚痴がお前を動かし、王子を西に戻した。その結果が何を生んだかまで私は見張っておらん」
暇人ではないのだからな、とつけ加えられた。
「ただ、物事は現在の形に収まった。お前が手を加えなければ違う形に収まっただろう。だが」
「それを論じても仕方がない、と?」
「そうだ」
オルエンはうなずいた。
「ともあれ、私がそうさせるつもりでなくともお前は王子を助け、西へと送った。お前はあのはめ絵の一片だったと言うことか」
「何が、はめ絵」
繰り返してエイルははたとなった。そんな言葉を誰かにも言われた気がする。クラーナだ、と思い出すと、伝言をも思い出した。
「そうだ。クラーナが、会いたいってさ」
思い出して彼は言った。
「何?」
オルエンは意外そうに問い返す。
「何でも、あんたの及ぼす影響力について、改めてお断り申し上げたいらしいぜ」
「ふむ。あやつに何か問題でもあったと? 考え難いが」
「俺に言われたって困るよ。問題は当人同士で解決してくれ」
そう言い放ってからエイルは、しまったと思った。
「あー、いまの、なし」
青年は両手を振って出した言葉を取り消した。
「今度は何だ」
「……解決を手伝っていただきたい問題があります、オルエン殿」
不承不承ながら下手に出てそう言えば、師匠はふんと笑った。
「よかろう。私は心が広い。当人同士で解決しろなどとは言わずに話を聞いてやろうではないか」