01 俺にある時間は
予想だにしなかった展開は青年の緊張を張りつめ通した。
〈山葡萄〉亭は、魔術的な会合が持たれたことなど露とも知らぬままに平穏なる業務を続け、母と息子の卓からは空いた皿が片づけられた。
いつもならば厨房の下働き経験が、青年を給仕の動きや手つきに注目させる。だがいまは、そのような余裕はない。
まずエイルは、くれぐれももう二度とあの商人に会わないようにと母親に言い含めた。
胡乱そうな顔つきは変わらなかったが、息子の真剣さが通じたのか、アニーナはそれを了承した。
「だいたい、大きな商売なんてのは長続きしないだろ。あたしは金儲けをしたい訳じゃない、自分が暮らしていければそれでいいんだから、セドーとの売り買いをやめてまでほかの仕事をはじめたりするつもりは、ないんだよ」
それが母の説明だった。セドーというのは長年アニーナの籠を買いにきている仲買人だ。籠など大金で売れるということはないが、セドーは欲張ったところのない誠実な商人で、前回の品が完全にはけていなくても、必ずアニーナの籠を買っていった。
「なら、いいけどさ」
エイルは、アニーナがクエティスの口先に乗りそうにもないことには安心したが、あの商人は本当に彼女と商売をしたい訳ではないのだから、商売がご破算になったからと安堵する訳にもいかなかった。
「そうだ、俺、ザックに頼んでうちのあたりも巡回経路に入れてもらうようにすっから。奇妙だとか思ったら町憲兵にすぐ言えよ」
「何言ってんだい。あたしが断ったらあの商人さんが嫌がらせしてくるとでも?」
「それじゃ済まないかも。悪徳だって言っただろ」
「まさか。何もおかしなことなんて起きないよ」
一度は起きただろうが――というような台詞は飲み込んだ。アニーナは、二年前に彼女を襲った凶刃がエイルに関わりのあることだとは知らない。息子がそれを隠したのは親に怒られたくないためではなく、それを話すとなるとほかにもたいそう魔術が付随した話を語らなければならなくなるからだ。それはアニーナの気に召さないし、エイル自身もお断りだった。
「それから、俺が渡した護符もまだちゃんと持ってんだろうな」
「ああ、あれ? どこにやったかね」
「おいっ」
「冗談だよ。ちゃんとしまってあるさ」
「しまうなよ」
エイルは顔をしかめた。
「いつでも使えるように肌身離さず持ってなきゃ、意味ないんだから」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ、魔術師。あんな胡散臭いものを持ち続けるなんて嫌だよ、あたしは」
「母さん!」
エイルは真剣に母の瞳を見た。
「――頼むから」
「……ふん?」
母は面白そうにそれを見た。
「近頃、お願いごとが多いねえ、エイルや」
「わあった、わあった! 今度、あれ持ってくるから。この前、母さんが気に入ったって言ってた、南方名物」
「食べ物で親を釣ろうってんだね。何て息子だろう」
「にこにこしながら言うなっ」
どうやら釣れたらしい。これで母に護符を持たせられるなら、安いものだ。
「俺、なるべくアーレイドにいるようにするから。そうできないときは」
エイルは思いつき、考えて、頭を抱え、唸ってから顔を上げた。
「……ラニタリスを連れて、くるかも」
「また『面倒を見てくれ』かい? 何でもかんでも頼るんじゃないよ。まあ、あの子は可愛いからいいけど」
「もしかしたら、以前ほど、それほどは面倒をかけないかも」
エイルはゆっくりと慎重に言った。
「その代わり、ええと、驚かせるかも」
当然、アニーナは息子の台詞に詳細なる説明を要求した。だがエイルは求められた説明を曖昧な言葉で切り抜け――られたかどうかは、微妙だが――逃げるように席を立った。
「ように」と言うよりも、実際逃げたのだ。いま、母への言い訳に使える余白は、彼の頭脳にない。
三日。その言葉がエイルの頭のなかで回る。
クエティスは、三日と言った。ならば、少なくとも三日間はアニーナに何もないと思っていいだろう。ここでエイルの機嫌を損ねることは、商人にとって何の得にもならぬはずだ。
(ちくしょう、勝手に決めやがって)
三日後に首飾りを持っていかなければ、あの商人と魔術師がどんな手段に出るものか。企みを防いで返り討ちにしてやる自信でもあればよいが、向こうの魔力の方がエイルより数段上であることは判っている。気に入らないが、魔術師には魔術師が判る、のだ。
もっともこの場合、気に入らないのは「判る」ことではなく、「コリード」が確実にエイルより上位である、ということだ。
(首飾りを渡す……しかないのか?)
屈することは気に入らないが、気に入らないと言って母を危険にさらす訳にもいかない。
エイルは考えた。仮に、渡さざるを得ないとなれば、それまでにやるべきことは。
(呪いを解く)
(あと三日で?)
(それと、ラニとの関わりを把握する)
(三日でかよ?)
(いや待て。三日後ってことは、三日目だ。てことは、俺にある時間は、今日の半分と、あと二日)
(……無茶だ)
嘆息しそうになって、それをとめた。急に乗せられた重荷を重いと言ったところで軽くなる訳でもない。
青年が〈山葡萄〉亭を出て太陽に顔をさらすと、声が飛んできた。
『エイル、エイル、たいへん!』
「どう」
おっと、とエイルは口に手を当てる。
(どうした、何があった!)
『ここ、きて、早くっ』
ぱっと映像が脳裏に浮かんだ。ここは勝手知ったるアーレイド、というやつで、エイルは瞬時にそれがどこか判った。
「よしっ」
呟いて青年はそこへ向かって走り出す――のではなく、ぱっと路地に駆け込んだ。
(できっかな)
(じゃない、やるんだよ、馬鹿野郎)
自らを叱咤するとエイルは深呼吸して瞳を閉じる。
ラニタリスが見せた場所は、ここから少し北、中心街区の賑わいが見え出す辺りだ。その周辺の小路を思い浮かべる。あの道ならば、滅多に人気はない。
(この距離なら)
(――行ける)