09 誤解があるようです
先に新来者の存在に気づいたのは、アニーナの方だった。
「おや」
母は珍しい生き物でも見るような目つきで息子を見た。
「どうしたんだい、こんなところで」
その言葉に、入り口の方に背を向けていてエイルに気づいていなかった――少なくとも、そのように見えた――商人もゆっくりと振り返った。エイルはそれを見ながら言葉を返す。
「それは、こっちの、台詞」
アニーナへの返答と、クエティスへの一声を兼ねる。
「いったいどんな事情で、見も知らない相手と、お食事」
これまた両方への台詞である。
「何だ。おかしなこと考えてるのかい? 馬鹿な子だねえ。あたしがお前の父さん以外の男を相手にするはずがないだろう」
「そうですよ、エイル。お母さんに対して失礼な」
何とも平然として商人は言った。エイルはかっとなりかけるが、懸命に自制をする。
「人の母親に何を売りつけるつもりだったんだ」
声を押し殺して言えば、クエティスは肩をすくめる。
「逆ですよ」
商人は言った。
「私はそれどころか、アニーナ殿の商品を買い受けにきたのです」
「新しい売り先があるんだってさ」
「ひとつ、大口の商売がありましてね。エイル、君のお母さんの手が借りられないかと思ったのですよ」
「ふざけんなっ」
「いやだねえ、何を大声出してるのさ。お前、友だちなんだろう」
「この際だからはっきり言っとく。違う」
「ああ、それは残念です」
「お前、失礼じゃないかい」
「あのなっ、違うんだから仕方ないだろっ」
エイルは叫んだあと、視線を感じた。ふいと振り返れば店中の視線が集まっている。青年はこほんと咳払いをすると、空いている椅子を引いた。
「どんな下らない話を聞かされた、訳」
「本当に失礼な子だねえ、すみませんね、旦那」
「いえいえ、いいんですよ。エイル君とは少しばかり行き違いがありましたから、誤解を受けても仕方のないところです」
「誤解が聞いて呆れるね」
「これ、エイル」
「いいんですよ」
アニーナはただでさえ息子に点がからいと言うのに、これではますます、エイルが悪者である。そうとまでいかないにしても、にこにこと人の好さそうな商人の横で仏頂面を浮かべていれば、まるで物わかりのいい大人とわがままな子供だ。
「それじゃいったい何のご相談だ。母さんの商品に神秘の加味は難しいと思うけどな」
籠などは、どうやったって籠である。歌を謡う籠とか、魔物が使った籠などというのは喜劇にしかならない。貴婦人の絵にも出てこないだろう。
「花売りたちから依頼を受けたんですよ。ほら、春先はきれいな花々が出回るでしょう。どうせならきれいに売りたいなんて話が出ましてね。瀟洒な手籠に飾り付けたらどうかという話になったんです。なかなかいい案だとは思いませんか?」
「あたしは味も素っ気もない実用的なものしか作れないよって言ったんだけど、それを可愛らしく飾り付けてくれるのは向こうでやるんだってさ」
「こちらはお願いをするのですから、受けていただいてもいかなくてもお食事をごちそうしますと言ってアニーナ殿をお誘いしました。あなたの気に入らないとは思いませんでしたので」
「何だと」
エイルは剣呑な顔になった。
「気に入るはずないだろうがっ」
ばん、と卓を叩くと、皿の上に置かれていた匙がかちゃんと揺れた。
「まさか、引き受けたんじゃないだろうな!」
「大声を出すんじゃないよ、まだ話の途中さ。何なんだい、いったい」
アニーナがじとんとエイルを見る。エイルはクエティスをキッと睨みつけてから母親に視線を戻した。
「騙されんなよ、母さん。こいつはな、悪徳商人なんだ! 偽物を作って不当な商売をする偽造屋!」
エイルがぴしゃりと言うと、アニーナは目を細くして胡乱そうに――商人ではなく、息子を見た。
「籠に本物も偽物もないだろう」
「う」
その冷静な指摘に息子は返答に窮した。
確かに、籠は籠で、上手なものや下手くそなものはあるとしても、編めば籠だ。たとえばアニーナの作るものが本物だとして――少なくとも偽物でないことは確かである――それの模造品は、それでもやはり籠だ。熟練の彼女の品より粗雑ならそれはただの粗悪品か或いは失敗作。偽物とは、言わない。もし籠作りの達人がいて、そうでないものをその品だとでも言えば偽物だが、「高名な籠職人」などはいないと思う。たぶん。
「いや、母さんの品をどうとか言うんじゃない。とにかくこいつはそういう奴なんだ、そんな奴の商売になんか乗るなよっ。ってか、呑気にお食事なんかすんなっ」
「立派な手形も持ってる商人さんに、お前、さっきから非礼が過ぎるよ」
「それだって偽物かもしんないだろ」
「エイル、誤解があるようです」
クエティスはあくまでもにこにことしている。
「あなたが〈紫檀〉のことを言っているのでしたら、私は彼らの仲間ではありませんよ」
「適当こくんじゃねえ、俺が騙されると思って」
「彼らと商売をしたことは否定しませんが、まさか彼らがあのように、私の持ち込んだ品を模造するなど夢にも」
「ふざけんなって言ってんだろ、俺ぁちゃんと知ってんだぜ、クエティスって男が東の品だと言っていい加減なもんを売りつけたってことをな」
「その『クエティスという男』が私だという証拠があるのですか?」
心外だ、とばかりにクエティスは言った。エイルは詰まる。
「この辺りでは珍しい名前かもしれませんが、ここの南の方にいけば間々ある名前ですよ。そういう名を持つ商人がビナレスで私ひとりとは限らないでしょう」
「そうかもしんないけどな、〈紫檀〉と関わってるのがそう何人もいるかっ」
「そうですね。では彼らは私の名前を使ったのでしょうか」
「あのなっ、俺に訊くなっ」
騙されてなるか。もちろんエイルは騙されないが、アニーナの前だ。傍から聞いていれば、商人はまあまあ真っ当なことを言っているように聞こえるだろう。そしてエイルが難癖をつけているように見えるはずだ。何よりアニーナは、息子に点がからい。
「エイル」
案の定、咎めるような声が母から飛んでくる。
「お前がこの人にどんな悪感情を抱いているのか知らないけれど、あたしの商売はお前の感情とは関係ないよ」
「ああ、そういう問題じゃなくて!」
エイルは唸った。
「こいつは、俺の持ってるもんを欲しがってるんだ。それで、俺に『譲ってください』とか何とか言うより先に、挑戦しかけてきてるんだぜっ」
「話が変わったね。言ってることが滅茶苦茶だよ、息子や」
「ああああっ」
エイルは頭を抱えた。確かに、飛躍して聞こえるだろう。事実なのに。
「クエティス、てめえ、手ぇ引けっ」
母を説得することはとりあえず諦めて、エイルは商人に言った。クエティスは面白そうな顔をする。
「話が飛躍してますね、エイル」
思っていたことを言われた。悔しい。
「いいんだよ、母さんには判らなくても」
「何だって? お前、母親に対して」
「母さんは黙っててくれっ。クエティス、恍けんのもいい加減にしろ。てめ、シュアラや母さんの前に現れて俺を脅すつもりかもしれないけどな、んなことしたってあれは渡さねえぞ」
「シュアラ王女殿下かい? 王宮にまで上がったの、この人。やっぱり、ご立派な旦那じゃないか」
「ええい、いい方向に聞くなっ」
「脅すだなんて人聞きの悪い言い方ですね、エイル。私は王女様にもあなたの母上にも、何も不都合を働いていないと思いますが?」
「いままではそうでも、この先どういうつもりかは判らないだろうが」
「この先」
クエティスは繰り返して少し笑った。
「この先……私がどうするかは、あなた次第だとご存知では?」
ふっと――商人の雰囲気が変わった。変わらず人のよい笑みを浮かべているのに、その視線は「わがままな子供に困る物わかりのよい大人」から、タジャスで一度見せた、冷たさを帯びた。
同時に、空気が変わる。魔術師は気づいた。――先の男の術が行使されている。この会話は、エイルとクエティスだけのものだ。アニーナには、聞こえない。
「どうしてほしいですか? エイル」
「てめえ」
「手を引けと。そのために必要なものをお前は知っているな」
「渡さねえと、言った」
「何故だ」
クエティスは不思議そうにした。
「お前はあれに何の関わりが? 特殊な力を欲しているようにも見えない。金目当てであれば出してもよいのに、そういう訳でもなさそうだ」
「タジャスの伝説、知ってんだろが」
エイルは唸るように言った。
「『呪い』、と」
それは小馬鹿にするような口調だった。
「美しい装飾品を巡って人間が争うのは、何も珍しい話ではない。その手の物語は幾つもある」
「……何だ、まさか本当に知らないのかよ」
エイル少し勢いを削がれた。