08 効かねえな
名前には力がある。
エイルはそれを知る。魔術師はそれを知る。
彼はたまたまラニタリス――サラニタに「サラニタ」と呼びかけてその主となった。意図していなくても、名付けという行為はそれだけの力を持つ。
エイルはそれを学んだ。学んでいるところ、かもしれない。
だが、このような真似をされたことはない。「名を呼ぶ」という日常の行為に縛りの術を乗せ、隙あらば絡め取ろうと、魔術の網を投げられること。
エイルは軽い目眩を覚えた。空いている左手で素早く防御の印を切る。男は意外そうに片眉を上げた。
「何だ。馬鹿な新米だと思っていたのに、そうでもないんだな。我が術を弾き返したのも偶然じゃない、か」
「有難い、お褒めの言葉だね」
そう言うとエイルは再び右手を引いた。だが男は頑として青年の手首を離さない。
「いつまで掴んでんだよ。そういう趣味でもあんのか」
「いいや。クジナ趣味でもあれば、もっと可愛らしい少年を選びたいものだ」
余裕があれば、南の誰かに聞かせてやりたい台詞だ、とでも考えたかもしれないが、いまのエイルにそんな思考は浮かばない。
「その忌々しい杖をしまえ。穏やかに話をしよう。エイル」
繰り返し、名に力が乗せられる。エイルは胸元に隠したままの赤き翡翠――リック師の魔除け飾りに意識を集中させた。術は、散る。
「……効かねえな」
ようやくこれが魔除けの力を持つと認識できた一瞬であった。逆呪いでもかかっているのではないか、などと疑ったことをエイルは心で師に謝罪する。
「ふん」
男は言うと、エイルの手首を掴んだ手に力を込めた。エイルは痛みに顔をしかめたが、うめき声などは出してやるものか、と歯を食いしばる。
「離せ、よ」
「杖をしまえば、な」
この野郎、と腹立たしく思った。魔術で駄目ならば腕力でという訳だ。男の体格は決して大きくなく、戦士のような筋肉もついていないが、どちらかと言うと小柄になるエイルに比べれば力は強そうである。
(ちくしょう)
(馬鹿に、すんなよ)
エイルはそっと呼吸を整えた。ここを読まれては、いけない。
(いち、にぃ)
さん、でエイルはねじっていた身体を元に戻すと、そのまま後ろに一歩踏み込んで、左肘を相手の腹に思い切りよく叩き込んでやった。まさか魔術師同士の対峙にこういった直接的な方法が取られるとは思っていなかったのだろう、男は奇妙な声を洩らしてよろめく。
「っしゃ」
これこそ「隙」というやつだ。エイルは勢いよく右腕を引き、しつこく彼を掴んでいた掌から逃れることに成功した。
杖を突きつけてやろうかとも思ったが、剣ほどではないにしてもいささか目立つ。エイルは挑戦的な姿勢を取ることはやめ、杖の飾り輪を包み込むようにしながら持つにとどめて相手を正面から睨んだ。
「もう一度訊こう。……やる気かい?」
魔術も使わず、剣も使わないなら残るは肉弾戦だ。男はエイルを小柄と見て力ずくで言うことを聞かせようとしたらしいが、こちとらアーレイド一の剣士に仕込まれた身である。体術など基礎も知らない相手ならば、余程大柄な男でない限り、投げ飛ばす――は難しくてもすっ転ばせるくらいなら自信があった。
「いいや」
男はあっさりと言った。むきになってかかってでもこられれば面白い、とばかりに――どちらかと言うと――やる気になっていたところなのに、両手など上げられたエイルは拍子抜けする。
「砂漠の術師の顔を見ておこうと思っただけだ。その方が、追いかけやすいからな」
「はっ、けっこうだ。俺もあんたを覚えたぜ」
暗金の長髪。感情のない焦げ茶の瞳。同じように抑揚のない、高めの声。それから、この魔力。
「名前は、教えてもらえないんだろうな」
エイルはにやりとして言った。
「何しろ、そんなもん教えたら危険だ」
「挑発のつもりか?」
男は肩をすくめた。
「知りたければ探ってみろ。エイル」
三度、網が投げられた。エイルは唇を歪めて、それをかわす。そこで初めて、男の顔に変化が表れた。わずかに上げられた口の端。笑った、のだろうか。
「よいだろう。楽な仕事ではないという訳だ。その分、クエティスに報酬を釣り上げさせる。さあ、魔術を使う気がないと言うのなら私はもうとめない。行って、あやつと母親の逢い引きを邪魔してやるといい」
その言葉にエイルははっとなる。
(母さん)
言うなりになることには、少し抵抗があった。それに、魔術師がこうしてエイルに対峙していた間は、アニーナに魔術的危険はない。たとえ商人の口先にたぶらかされても――そんなに純情なところはないと思っているが――無事だ。
だがエイルはきゅっと唇を結ぶともう一度男を睨みつけ、踵を返した。
(ラニ)
心で、鳥を呼ぶ。
(こいつを見張っとけ。できれば、雀や鳩みたいな目立たない色になって。くれぐれも気づかれるなよ)
(何か術を編む様子があったら、母さんに気づかれてもかまわない。すぐに俺に教えろ)
それははっきりとした「命令」であり、それに対して小鳥が余計なお喋りをすることはせず、「了解した」という概念だけを送ってきた。成程、〈塔〉の言ったのはこれかとエイルが納得するのは、しかしもう少しあとである。
男が背後から襲いかかってくるような危険については無視した。表情には出さなかったが先の不意打ちは強烈であったはずだし、魔術的にも籠絡は簡単ではないと知ったはずだ。
しかし、エイルはいまそのような判断をした訳ではない。
それはないだろう、と思った――或いは感じただけだ。
ただの勘か、はたまた予知の一種なのか、どちらとも取れるその感覚。
どちらでもよい、と青年は思った。