07 魔術師には魔術師が判る
〈山葡萄〉亭は、南区にほど近い中心街区の外れにある食事処で、エイルも一回訪れたことがある。
「洒落た店でよい味を出すが、価格が安い」というのが一般的な評価だったが、食うや食わずの少年にはそんなところへ行くのは大した贅沢だった。当時の彼の感覚で「とてもたくさん稼いだ」と思う日に足を踏み入れてみたが、これならばいつもの屋台の麺物の方が満足できたとがっかりしたことを覚えている。
もっとも、成長期の少年が求めたのは質よりも量であったから、エイルの評価はあまり公正ではない。ただ、言うなれば「あまりいい思い出のない」店ではある。
エイルは足早から小走り、ほとんど駆けるようになるとしまいには全速力となってその店の近くまでたどり着いた。
まだ空気の冷たい初春、少し洒落た店に向かって若い青年が顔を赤くし、息を弾ませてやってくれば、それはまるで女の子との待ち合わせに遅れて焦っているようである。
だがエイルはその入り口に駆け込む前に、そっと周辺をうかがった。ラニタリスがすいと寄ってくる。
「どうだ」
「当たり。店の奥にいるよ、アニーナ」
エイルが窓から覗き込めばなかから丸見えだが、小鳥ならば気づかれない。或いは、気づかれても問題ではない。
「やっぱ、いるか」
先ほど掴んだ「母がここにいる」という感覚はあのあと数秒で消え去っていた。二年前に特定の人物に対して不思議な感覚を覚え続けたのとは異なり、それは一瞬ぱっと燃えて消えた炎のようなものだった。
ラニタリスの証言はあの感覚が夢や幻でなかったことを教えてくれる。
だがそれは安心よりも不安を示した。
「ひとり、か?」
尋ねたものの、そうは思えない。母に無意味な贅沢をする気質はなく、単純に財布事情もそれを許さないはずで、こんなところにいるということはほかの財布があるということになる。
「知らないオトコと一緒よ」
普段ならば、ついに母にも男ができたか、息子としては複雑だがそれもいいだろう、などと考えるところだが、今日は事情が異なる。
「どんな奴だ」
「えっとね」
ラニタリスはちょこんとエイルの頭上に乗った。
「おいっ、遊んでる場合じゃ」
「遊んでないもん」
不満そうに小鳥は言った、その瞬間だ。
小鳥が覗き込んだ店内がエイルの目前に蘇った。まるで、彼自身が見たかのように鮮やかに。――これは、エイルが先にラニタリスに対してやったことの、逆である。
だがそれに驚いたり何らかの感慨、それとも反発を持つよりも早く、エイルの感情は逆撫でられた。
「クエティス!」
張り上げられた声に驚いたか、それとも込められた怒りの力を怖れでもしたか、小鳥はぱっと中空へ飛び立った。だがエイルはそれを目にしてもいない。
白い卓を挟んで彼の母アニーナの向かいに座る男。人当たりのよい笑顔を浮かべるが印象深いとは言えない顔つきの中年男。「絵画の貴婦人」への恋心などを語りながら害のなさそうな顔をしつつ、雇った術師にエイルへ魔術の技を放たせた男。その後しばらく音沙汰がなかったかと思えばシュアラの隣にまで姿を見せていたと言う、それは確かに商人クエティスであった。
かっとエイルの頭に血が上った。
彼はほとんど何も考えず、いつもなら忌避している行動に出る。
即ち、胸の隠しから術で小さくしている短杖を取り出し、それを通常の大きさに戻して、何らかの術を行使しようとすること。
何を行おうとしたのかは自分でもよく判らない。彼は大した呪文を知らないし、熟考をせず、反射的に何らかの術を使えたことなどもない。そのまま彼が短杖を振るっていたら、いったい何が起きたものか。もしかしたら勢いよく振られた腕に少しばかり風が立つ以外の何も起きなかったかもしれない。
だが、その結果は判らなかった。エイルは杖を振り切らなかったからだ。
正確に言うならば、振り切れなかった、ということになる。
「そこまでだな」
聞き覚えのない声と同時に、杖を手にした右手がぐいっと後方に引き戻された。
「なっ……!?」
「やめておけ。街んなかでそんなもんを振り回して捕まりたいのか?――王女殿下の魔術教師がそれじゃ、外聞が悪いだろうに」
「だ」
エイルは掴まれた手首を振り払おうとしたが、うまくいかなかった。彼はそのまま身体をねじり、背後の相手を振り返る形となる。
「誰だ」
問いながらも判っていた。
魔術師には魔術師が判る、のである。
「てめえ……あんときの、あいつだな」
エイルのみならずウェンズの隙をも突いて術を寄越した魔術師。音もなく彼の背後に立ち、魔術の行使を防いだこの男がそうであることは〈真夏の太陽〉のように明らかだった。
二十代の後半だろうか。暗金色の髪は肩に届くくらいの長さがある。エイルの髪は忙しさにかまけて無造作に伸び出していたが、この男のそれは意図してその長さにあつらえているようだった。エイルの明るい茶色の目を見据える相手の焦げ茶の瞳には、何の感情も見て取ることができない。
「『あんときのあいつ』」
男は淡々と繰り返した。
「曖昧だ。何の意味もない言葉だな」
「喧嘩売ってんのか。やる気かよ」
「私が、お前と? どうしてもと言うならば応じてもいいが、街のなかはまずいんじゃないか、エイル術師」
エイルはどきりとした。それは何も「街のなかで人を傷つけるような魔術を使えば憲兵隊のみならず魔術師協会からも懲罰を食らう」ことを思い出した訳でもなければ、相手が自分の名を知っていることに驚いた訳でもない。「アーレイドのエイル」を突き止めて城まで行ったのだろうから、名前くらいは当然知られているはずだ。
彼の心臓が音を立てたのは、目前の男が彼の名に容赦のない魔力を乗せてきたため。
名前というものには力がある。オルエンはエイルにそれを説いたし、数年前よりはエイルにも理解できたことがある。
何の魔力をも持たない人間たち同士であっても、たとえば「名を呼んで」振り向かせる、というのは一種の呪いだ。「名を呼んで」気を引く、命令をする、もしそこに「名前」がなければ言葉は霧のように飛散し、意味を為さないことすらある。簡単に言えば、背後から声をかけられても「名前」がなければ自分が呼ばれたことに気づかないかもしれない、というようなことだ。