10 無用だったな
「詳しい話、聞いたか。何かおかしなことはなかったのか」
「どうしたの? 友だちじゃないにしても……そんなふうに疑う相手なの?」
「少なくとも、間違ってもシュアラに紹介したりすることのない相手だ」
エイルの声音に真剣なものを聞き取って、レイジュは思い出すようにした。
「そうね……東国の商品を取り扱っているという話だけれど、城へは商売にきたのではなくて、シュアラ様にご挨拶をと思ってやってきたというようなことだったらしいわ。それもあって、シュアラ様はその商人を迎えられたの。いくらエイルの友人でも、そのつてだけで高級なものを不必要に買わされても困るでしょう」
王女だからと言って何でも好き勝手に買える訳ではない。マザド王は愛娘に甘いからシュアラがねだればたいていのものは買うことができただろうが、王女は少女の頃に比べ、欲しいものと必要なものの区別をつけるようになってきていた。
言うなれば、王女の責任というものをはっきりと自覚しているということになり、それに気づいたエイルは、負けられない、と思った。
「商人が商売をしないと言うのはある意味ではおかしなことかもしれないけれど、問題になりそうなことは何もなかったみたいよ」
「ファドック様は。いなかったのか」
「いらっしゃらなかったわ。その話を聞かれたときは、見知らぬ者をお近くに連れるときはご自分か近衛を必ず近くにおくようにと仰いはしたけれど」
「ひとりだったのか」
「何が?」
「商人だよ。連れはいたのか」
重要な点だ。レイジュは首をひねった。
「聞いてないわ。ひとりだったんじゃないかしら」
「本当か」
「判らないわ。リンカに訊いておく?」
「頼む……いや、やっぱいい」
言いかけてエイルは否定するように手を振った。実際にいたかどうかは問題ではない。何故なら、隠れようとすれば魔術師にはいくらでも方法があるのだから。
「何よ」
レイジュは提案を拒否されたことに怒った顔をするか、それとも素直にうなずくか迷ったように中途半端な表情を見せた。
「……エイル」
それからレイジュはゆっくりと青年の名を呼んだ。
「何か、危ないことなの?」
「かも、しれない」
エイルは小さく言った。誰かに聞かれることを怖れるかのように。
「もし、俺のせいで何かあったら、俺……」
彼はほとんど無意識のうちにレイジュの手を取っていた。侍女は少し驚いた顔をして、それからそっとその手を握り返すと、大丈夫よと繰り返した。
かちゃり、と扉が開いた。
よい雰囲気になりかけた元恋人同士は手を離してはっとそちらを見やる。
「先生」
そこにはランスハル宮廷医師が立っていた。ランスハルは唇に手を当て、静かにするように合図をしてから後ろ手で扉を閉める。
「どうなんです」
「レイジュ、だったな。すぐに王陛下とロジェス殿下にご連絡を」
医師は侍女に命じ、青年はどきりとした。父親と夫を至急呼ばなければならない状態、なのか?
「先生、シュアラはっ」
「王女殿下、と言い給え」
焦って言ったエイルに、初老の医師は唇を歪めた。
「今後はますます、そのような物言いは許されなくなるぞ。ロジェス殿下の次の王位継承者の、母上になられるのだからな」
「……はっ?」
「それじゃ」
「お若いのになかなか徴候がなくて心配だったが、無用だったな。そう。ご懐妊だ」
ランスハルはにやりとした。
「クラル茶をお飲みになって気分を悪くされたそうだな。あれは強い茶だから、女性は体調によっては貧血を起こすこともある。これまでは平気でいらしたそうだが、腹に命が宿れば事情はがらりと変わるもの。今後は気をつけるようにな、侍女」
「は、はいっ」
レイジュは目を見開いて答えると、祝いの仕草をして踵を返した。医師の命令を果たしに行くものだろう。それを見送りながら、エイルはその場にへたり込みたくなる気分だった。
懐妊。めでたい話で、エイルが案じたようなことではない。
青年が安堵の息をつけば、医師は片眉を上げた。
「どうした。まさかそなたは、シュアラ殿下に懸想でも」
嘆息と思われたらしい。エイルは慌てて両手を振った。
「じょ、冗談言わんでください。俺はファドック様に殺されたくありません」
「そう言う場合は普通、旦那の名前がくるものだが」
ランスハルは面白そうに言った。
「ロジェス殿下が俺を殺したいと思ったら、たぶん命令はファドック様に行くんじゃないですか」
「かもしれんな。まあ実際、確かにその前に護衛騎士の方がそなたを斬りそうだ」
「あんまり嬉しい同意じゃありません」
エイルは微妙な笑顔を浮かべてそう言うと扉を指した。
「会えますか」
「『お目にかかれますか』」
「……敬愛する麗しきアーレイド第一王女殿下に、わたくしのようなしがない青年がお目にかかれますでしょうか」
「少しだぞ」
エイルの返答に満足そうにうなずくと、医師は出てきたばかりの戸を丁重に叩いてそれを開けた。