01 呼んでくれ
本当に大丈夫だろうか――とは、思う。
こうして意気込んでエディスンにまで乗り込んだことを後悔する羽目にならなければよいと。
(ええい、迷うな)
(俺のやるべきことを忘れるんじゃない)
青年は深呼吸をすると、ウェンズ術師がその部屋の戸を叩き、それを開くのを見守った。
「お時間を有難うございます、ギディラス」
「君が重要視することを軽んじはしないよ、蘇り君」
物柔らかな声にエイルは意外なものを感じた。
エイルはアーレイドの協会長と直接に話をしたことはないが、非常に厳しい術師であるらしい。怒りを買った魔術師が蛙にされたなどという話まであるくらいだ。
「魔法使いが人間を蛙にする」などはたいていおとぎ話の領分で、たいていの魔術師には傍迷惑な嫌疑である。だが魔術師が魔術師協会長について噂するならば、それは真実の響きを伴う。実際には「一生そのまま蛙で過ごしました」ではなく丸一日の罰だったということで、ますます真実めいていた。
つまり、エイルが思う「協会長」は、彼が魔力を持つ前に「魔術師」に対して抱いていた印象に近いのだ。
ところがエディスン協会長フェルデラは、魔術師の不気味さよりも神官の穏やかさを持つように見えた。学者の賢さのおまけつきだ。
もっとも、だから信頼できるということにはならないのだが。
「アーレイドの、エイル術師ですね」
濃い茶をした長めの髪をかき上げると、四十代半ばほどのフェルデラ協会長は眼鏡の奥からじっとエイルを見て、少し笑んだ。
「成程、君の目は確かだ」
それはウェンズに向けた言葉らしかった。ウェンズは彼の協会長に一礼をするとエイルにうなずいて踵を返した。案内はここまでだというのだろう。
力ある術師とふたりきりにされるというのはどうにも緊張を伴う体験であるが、ウェンズに隣にいてもらったところで何にもならない。心の支えくらいにはなるが、「この人が怖いから一緒にいてくれ」とは、成人男性としてちょっと言えないものである。
結果としてウェンズは協会長室を去り、エイルはひとり、フェルデラの視線にさらされた。
「驚いたね」
まず、フェルデラはそう言った。エイルは片眉を上げる。
「それは、俺がいきなりきたことに対してっすか。それなら問題なのはエディスンから飛んできた力だ。俺を誘き寄せたかったんなら成功ってとこっすね、ギディラス」
「喧嘩腰できたか。だが、そう見せるほど簡単な性格はしていないようだ」
フェルデラは面白そうに言い、エイルは肩をすくめた。
「さっき、エディスンから俺のとこまで」
砂漠とかラニタリスとか言うことはとりあえず避けた。
「妙ちきりんな力をすっ飛ばしてくれたのはあんたですかい、それともお友達のローデン閣下」
不審を全身で表しながらエイルが言うと、フェルデラは笑った。エイルは少し腹を立てかけたが、相手はエイルを馬鹿にした訳ではないようだった。
「失礼、私と友人だなどと言われたらローデン導師はきっと怒ると思ってね」
それからフェルデラは笑いを納めると、姿勢を正すようにして続けた。
「まず告げよう。私は関わっていない。それから、協会員の誰ひとりとして」
フェルデラはさらりと言った。協会員全てについてひと息で語るとは凄い話であったが、長という職業には多少のはったりが必要なのだろう、とエイルは踏んだ。はったりではなく、本当に知るのだということも有り得るが――それはそれで怖ろしい話だ。
「それじゃあれは何だと? 俺の勘違いかい?」
「そうなるだろう」
皮肉たっぷりに言うエイルに、フェルデラはうなずいた。
「ちょいっ、俺はごまかしだのすっとぼけだのが聞きたくてわざわざこんなとこまできたんじゃ」
「すっとぼけてはいない」
協会長は面白そうに繰り返した。
「魔術師協会が関知しない力、というものがあるね?」
言われたエイルは瞬きをした。
「え……っと?」
「判りやすくは神官。たいていは控え目な神力だけれど、崇める神によっては協会を困らせることがある。このことについては、ご存知だね」
フェルデラが獄界神官について言っていることにエイルは気づいた。
「貴殿はあの件を知っているね。となれば、どこかで精霊師の力にも触れたかな?」
精霊師がどうのと言う話はスライから聞いていたが、直接どう関わるのかはよく知らなかった。エイルはただ黙っていたが、フェルデラは別に回答を求めるつもりではないようだった。
「エディスン協会は、貴殿が感じ取った力について何も知らない。それから」
フェルデラは頬杖をついた。
「私のではなく、むしろ貴殿のお友だちということになるだろう、風具と関わるのは」
「風具」
ティルド。ユファス。彼らのことを忘れた訳ではない。だがエイルは首を振った。
「俺のことはいいんだよ。協会が関わらないとしても、そうだ、ローデンとかはどうなんだよ? 星を読んだとか言って、自分の都合のいいように、魔術に縁のない兄弟を利用したりするようなことが」
「有り得るだろう」
「そのようなことはない」とでもくるだろうと思っていたエイルは目をぱちくりさせた。
「彼の頭にあるのは王陛下とエディスンを守ることばかり。協会や一魔術師、魔力を持たぬ者たちの利害など全く気にとめないんだ。どうにか改めさせたいけれど、なかなか頑固者で」
協会長は嘆息した。
「だが、彼がこの街のなかでいちばん風具を知り、その件に関わっている術師だということも確かだ」
そう言うとフェルデラ協会長はエイルを見た。
「貴殿は、どうしたい。宮廷魔術師殿と話をしたいのであれば、すぐに呼べるが」
「すぐに?」
エイルは少し驚いた。
ウェンズがローデンに接触できなかったという事実もあるが、それだけではない。
魔術師協会というのは、城の事情に首を突っ込みたがらないものだ。アーレイドではそうだし、どの街であってもたいていそういうものだと聞いた。
宮廷魔術師ならば、協会よりも王に仕える身だ。そうなった時点で、いかに魔術師と言えども協会長の命令には従わないものと思っていたのだが。
エイルの不審を見て取ったか、フェルデラは笑って首を振った。
「命令をすると言うのではないよ。風具に関係する緊急の話を私だけが握っていてもいいのかと訊くんだ。彼は私のことが嫌いで嫌いで仕方がないから、そんなことを伝えれば飛んでくると思うね」
協会長はどこか楽しそうにそう言った。
エイルには何が面白いのかさっぱり判らなかったし、魔術師協会長と宮廷魔術師などというふたりの高位の術師に挟まれることは、あまり得策ではないような気もして、とても笑ってはいられなかった。
フェルデラは急かすことなく、エイルの答えを待った。
青年はそっと深呼吸をすると顔を上げる。
「呼んでくれ」
短く、そう言った。
ここでびびって尻尾を巻くくらいなら、最初からくるべきではないのだ。
先に考えたのと同じだ。やるべきことを忘れるな。
彼は心を決めて、やってきたのだ。
嫌だ嫌だと言って、いつまでも逃げていられることではない。ラニタリスの運命を握った魔術師は、首飾りを投げ捨てることも、やはりできない。
それは、オルエンに渡された宿題だからではなく、これが彼の――運命であるからだ。
エイルはもはや、それを否定しなかった。