08 所有者
「――ラニ!」
間に合わなかった。
それはあまりにも速くやってきたのだ。
力が、子供でも小鳥でも魔物でも、何であれ害する目的でやってきたものかは判らない。だがその可能性がある以上、エイルはラニタリスを守らなくてはならない。
それが、主だと言うことである。だが。
エイルは間に合わなかった。彼は片手を上げることすらできなかった。
その間に、力は躊躇いなく子供――の姿をした正体不明の魔物――を撃った。
「ラ、ラニっ」
小さな身体で奇妙な力を受けたラニタリスは目をまんまるにして――それからキッと遠くを睨みつけた。
「嫌っ」
子供はそう叫ぶと羽虫でも振り払うように両手を振り回した。
「あたしのっ」
次の瞬間、飛んできた力は幻であったかのように、消え去った。
相変わらず、何も目には映らない。
だが判る。間違いようがない。力は、消えた。
沈黙が、降りる。
「何だ……いまの」
たっぷり十秒は経っただろうか。エイルは呟くと、はっとなってラニタリスの前にしゃがみ込んだ。子供は口をへの字にして不満そうな顔をしているが、傷ついた様子はない。
「どうした、ラニ。いまの、何だ。何があった。何とも、ないか」
エイルはいささかみっともなく慌てて、矢継ぎ早に問うた。
「判んない」
「おいっ」
「だってよく判んないもん。要らないものだからネムラセルとかって言ったの。でもあたしは要らないなんて思ってないから、嫌って言ったの」
「何の話、して……」
エイルは顔をしかめながら子供の台詞の意味を組み取ろうとし、しかし判らないと首を振ろうとして、目を疑った。
「ラニ……お前それ、いつの間に」
青年は子供の首筋に手をやった。
「見つけたから。キレイだなって思ったの。あっ、ここから出したら駄目って〈塔〉が言ったから、出したことはないよ」
主がその指先でつまみ上げた鎖の先にある半月板を眺めながら子供は言った。
――〈風謡いの首飾り〉。
それは小さな子供の首元には不似合いすぎる、豪華な装飾品。不吉な赤黒い斑点の、ついている。
エイルは呆然となった。いつから、ラニタリスはこれをいじるようになっていたのだろう?
「……いけなかった?」
エイルの沈黙に、子供は少ししゅんとなって問うた。
「あのなっ、これは危ないもんなの!」
青年はまず、叫んだ。
「いまのだって……そうだ、お前じゃなくて、これを目がけてきたんじゃないのか、いやそれより〈塔〉っ。何で勝手にさせておいたっ」
「それは、私には手がないからだ」
〈塔〉はどこか残念そうに言った。
「ないものを嘆かんでいい、そういうときはとにかく俺に言え、俺にっ」
「それもそうだ」
あっさりとした返答にエイルはうなった。本当に、〈塔〉はエイルを主だと思っているのだろうか? 報告すべきことと必要ないことの区別がつかないとは思えないのに!
「害はなかろうと思ったのだが」
「それはお前の判断か」
エイルはじとんと――〈塔〉を睨みつけるならばここだと決めている一点を――睨みつけた。
「それとも、オルエンか」
「まだ私を信じないのだな、主よ」
「こんな真似されて信じられるかっ」
エイルはふるふると拳を握った。
「怒ってる? 怒らないで、あたしが言わないでって〈塔〉に言ったの」
「それは関係がない、ラニタリス」
「そうだ、関係ない。お前の言うことを聞いて俺に黙ってるようじゃ、お前がこいつの主ってことになっちまう。俺はそれでもいいけど」
「私の主ではいたくないと言うのか。酷いことを言う」
「拗ねるなっ。じゃない、ごまかすなっ。はっきり言え、オルエンの命令かっ」
「違う」
〈塔〉はきっぱりと言った。
「エイル、お前はどうしても私がオルエンを真の主としていると考えたがるが、決してそうではない。オルエンは私に命令をすることもあるが、私はそれに闇雲には従わない。現在の主のことを考え、その不利にならぬようであれば、前の主の言うことも聞く。そのようなところだ」
「そりゃ」
エイルは目をしばたたいた。
「意外な、言葉だけどさ」
〈塔〉はこれまで、はっきり「エイルの命令の方がオルエンのそれよりも上だ」と言ったことはなかった。オルエンがくれば喜んでいるようだったし、「いまでもオルエンを主としているんだろう」というようなエイルの言葉を否定しないという形で肯定してきていた。
だが、オルエンはエイルの次点だとはっきり言ったのは、初めてだった。
「でも答えにはなってないぜ。どうして、ラニがこの首飾りで遊んでることを」
「遊んでなんかないもん」
「口、挟むな。どうして俺に言わなかった」
「――私の力はお前たちの『魔力』とはいささか異なるが」
〈塔〉はゆっくりと話した。
「それでも、お前が……いや、お前はまだその段階ではないな。オルエンが何かを見るように、何かを感じ取ることもある。エイル。私は、思ったのだ」
そこで〈塔〉は少し沈黙し、エイルは続きを待った。
「ラニタリスは、首飾りの力に馴染んでいる」
「……何?」
「思い出せ。魔物ルファードが身につけていた首飾り。魔物ルファードのなかにいた、サラニタ――ラニタリス。首飾りと子供は、ともにお前のもとにきたのだ、主よ」
「それは……そうだけど」
〈塔〉の言い出したことにその主は戸惑った。
「でも、それは、たまたま」
「ルファードは首飾りごとラニタリスをお前に渡したのだ、エイル」
「な、何だよ、それ」
エイルはラニタリスに視線を移した。子供は首を傾げている。
「判らぬか、主よ。その子供が、首飾りの所有者なのだ」
〈塔〉の言葉はまるで神託のようだった。
「ショユウシャって?」
「持ち主って、ことだ」
どこか呆然としたエイルは、ほとんど無意識のうちに説明をした。
「そう言やさっき、言ったな。ラニ……それが、自分のだって」
「あれは」
ラニタリスは気まずそうに言った。
「何だか、とられそうな気がしたから。でもこれ、あたしのじゃないよ。エイルのだよ」
「いや、俺はそれを保管してはいるけど」
「あのね、〈塔〉が言うみたいにあたしがショユウシャなら、それはエイルのだもん」
「は?」
「お前はラニタリスの主だからだ、それくらいは判るだろう」
「わ」
エイルは口を開けた。
「判るかっ。じゃあ何か? お前らのもんはみんな俺のもんか?」
「そうだ」
「そうよ?」
青年魔術師を主とするふたつの存在は簡単に答えた。
「私は特に、何も持ってはいないがな」
「そうだな、手がないんだからな」
思わずエイルは〈塔〉にそんなことを言ってから、またもラニタリスを見た。
「ラニ」
「勝手に箱から出して、ごめんなさい。でも、外に出さなければ悪いことないよ、ね?」
言いながら子供はたどたどしい手つきでそれを外し、エイルに差し出す。エイルはそれに手を伸ばしかけ――きゅっと拳を握った。
「……エイル、怒った?」
ラニタリスが心配そうに言う。エイルはそれに首を振った。
幼い子供に見える。年相応に無邪気な。
だが、これは魔物である。エイルはそれを忘れない。
ラニタリスが「子供のふり」をしていると考えているのでは、ない。ラニタリスは、そう見えるままだ。
しかしエイルは忘れない。忘れてはならない。
これは人外で、そして同時に――これは、彼の保護すべき存在だった。
幼な子に見えるからだの、そういうことでは無論ない。彼は、それの主なのだ。
不用意に発した一言。そんなつもりなどなかったのだと言っても、はじまらない。ただ「サラニタ」と呼びかけた、それだけでこれは否応なしにエイルに従わなくてはならない。
望んだ訳ではなくとも、決めたのはエイルだった。彼はラニタリスの運命を手にしたのだ。
そこに生じる責任。魔術の拘束と言ってもいい。それから逃れようとすることは、ラニタリスの定めを新たにまた狂わすことでもある。
(運命。定め)
(そんなもん、こりごりだ)
(でも)
作られた絆は、消えない。どこまで――いつまで逃げても。
「……〈塔〉」
青年は言った。
「さっきの力は、どこからきたか判るか」
「判る」
「どこだ」
「エディスン」
〈塔〉は厳かに言った。エイルは息を吐く。
「そうじゃないかと、思ったんだ」
言うと彼は顔を上げた。
「タジャスは、やめだ。〈塔〉、俺はエディスンに行く」