07 遠くから
クラーナが探ってくれているのは、タジャスを訪れたふたりの魔術師のことである。彼らが〈風謡いの首飾り〉に呪いをもたらした。
と言っても、それが「悪い魔法使い」であったと言うのではないようだ。
賊に連れ――クラーナの〈想像の翼〉に乗せれば、恋人――を殺された残りのひとりが、怒りと衝撃の狭間で作り出した、魔術ではない不可思議な呪い。
それはまるで吟遊詩人の歌物語のようであった。
もちろん、クラーナが創作したのでないことは判っているが、何にしても、親しい者の死に衝撃を受けたために発動された呪いであったのだとすれば、それはずいぶんとやるせない話のように思えた。
幸いにしてエイルには、そのような衝撃的な経験はない。亡くなった親しい者と言えば、記憶にはない父を別とするなら、病の精霊のために逝ったリック導師ひとりである。
リックはそれほど老いていた訳ではなかったが、病に倒れて冬を越せなかったという話は、悲しくはあるが理解できる。だが、大切な誰かがいきなり命を奪われるなど、想像をしただけでも身が凍りそうである。
「きつい、話だよな」
クラーナの話を思い出したエイルは独りごちると、身を震わせた。
「いま、誰のことを考えた訳?」
小鳥が耳元で鳴いた。
「うるさい」
「フラレたコイビトのこととか?」
「あのなっ、何でそんなこと……クソっ、シーヴだな、あの野郎」
砂漠の王子のにやり顔が思い浮かんだエイルは、盛大なる呪い文句を吐き――そのあとで少し、嘆息した。もう、友人の悪行に悩まされることは、ない。
「気を落とすこと、ないのよ? いまにきっと、イイコガデキルって」
その嘆息をどう思ったか、ラニタリスは慰めるようなことを言った。シーヴの受け売りであることは疑い得ないものの、鳥にも子供にも魔物にも言われたくない台詞である。だいたい、もしかしたら、もとの鞘に収まるようなこともあるかも――。
(いや、考えないでおこう)
エイルは首を振った。レイジュは、魔術師なんか恋人に持ちたくない、と言ったのである。
「そんな話はどうでもいいんだよ。問題は、タジャスで起きた出来事なんだから」
そう言って話を戻したが、それにしたってどう「問題」なのかはよく判らないところはある。
魔術師が、呪いをかけた。それだけなら以前にも予測はした。その裏にあったのが野望欲望の類ではなく、哀しい出来事だったとしても、かけられた呪いは変わらない。
だが、気になるところはある。
(あの呪いは、魔術とは違うんだ)
その点である。
エイルがレギスの街で偽物屋〈紫檀〉とその長にやったように、魔術師は呪いをかけることができる。それは魔術の技であって、技の仕組みを知る者には解くことも可能だ。
だが首飾りに刻まれているのはそれではない。
(それにしても)
(あの赤い斑点は、やっぱり――血痕なのか)
しかし、ただの血のあとでもない。乾いてこびりついたものならば、削り取ることもできよう。エイルはそう思ったのだし、幾度もそれに触れた。染み込んでしまったことも考えたが、そういった様子にも見えない。
あの赤黒い色は、まるではじめから首飾りに描かれていたかのように、そこにある。そして同時に、決して最初から描かれてはいなかったもの。
それはまるで、呪いの証のように。
(魔術師が、魔術で呪いをかけたんじゃない。少なくとも、意図的にそうしようとしたんじゃなかった)
(首飾りが――その怒りと哀しみを引き受けた。まるでそれは)
(血の、契約)
不意に浮かんだ言葉に、エイルはぞくりとした。
世の人々は、魔術師を忌まわしいと思う。善良な人間を惑わし、騙すと。
それはたいていの場合において、単なる偏見だ。魔術師は確かに不思議な技を編むが、誰も彼もがそれで悪事をはたらく訳ではない。
だが、存在する。その技で悪事をはたらくものも。
黒魔術師、闇の術師と言われる者たち。
魔力には善も悪もない。それはただの「力」で、そこに善し悪しを生み出すのは人だ。
たとえばただの「腕力」。ものを運ぶためにも使われるし、他人を殴るためにも使われる。「腕力」に善悪はない。「剣」との比較も、よく言われることだ。守るためにも害するためにも使われる、と。
だが逆に言えば、他人を殴るために魔力を使う者もいる、ということだった。
魔術師協会に細かい規範や明確な規則はほとんどない――街のなかで術を使って他者を傷つけてはいけない、ということぐらいだ――が、不文律というようなものはある。彼らなりに最低限の倫理観は持ち合わせているのだ。
だがそこから外れ、自分たちの道を行く者も。
協会はその道を禁じてはいない。ただ、普通は避ける。呪いが返ることをエイルが嫌うように、闇の技を使えば闇に近くなる。
その道を進むのは強い野心を持つ者か、そうでなければ単に愚か者だ。
残念ながら、頭の切れようと鈍かろうと、その道を行く魔術師はそこまで珍しくもない。そういった者たちが魔術で他者を縛るのに使うのは、言霊であったり血であったりする。
言霊の網がすり抜け得るのに対して、血の契約はそうはいかない。血はほかの何ものでもない、もっとも濃く強く当人を表すものなのだ。
もちろん、首飾りは「もの」である。物体だ。魔術の道具ではなく、〈塔〉のように意思を持って喋ることはない。
だがそれでも、その血を吸ったことによって、まるで首飾りと魔術師の間に契約が交わされたかのような――エイルにはそんな錯覚を覚えていた。
(本気で呪いを解くならば)
(命を賭ける覚悟が必要、か)
オルエンの言葉が思い出される。老魔術師はやはり何かを知っていたのに違いない。「知っていた」ということに語弊があれば、首飾りを目にしたときに気づいた、でもいい。
エイルは何となく、〈風謡いの首飾り〉をしまい込んだ箱が置かれている部屋の方を眺めやった。
一度も、歌は鳴らない。
あの日に受けた強烈な欲望――他者を害してもそれを自分のものにしたいという、怖ろしい熱情のことも忙しい日々に紛れて忘れていた。頭では覚えているが、その感覚を忘れそうなのだ。
思い出したい感覚ではないが、忘れてしまう訳にもいかない。本来のものはどうであれ、いまは黒い音色を放つあの首飾りの力を。
エイルはふるふると首を振った。完全に忘れ去ってしまっていないことが判れば、とりあえず生々しく思い出さなくてもいいだろう。
「やっぱり、話を聞こう」
改めてエイルは言った。
「タジャスに行ってみて……何か感じ取れるとも思わないけど、単純に、クラーナと話もしたいし」
「あたしもまたクラーナに会いたいなあ」
鳥は言った。
「いずれな」
「どうして今日じゃ駄目なのよ?」
「いや、駄目ってこたないけど」
「ほら、そろそろあれが着れるんじゃないかと思うの。この前、エイルが安かったからって買って、でも生地が薄くて寒そうだから春先にしようって言ってたやつ」
「ああ、あれね。やっぱ安もんは質がよくないな。……いや、そういう話をしてるんじゃなくて」
だいたい、ラニタリスは人間のように病の精霊には憑かれないのだから、生地が薄かろうが寒かろうがどうでもいいはずなのだ。ただ、もし町を一緒に歩いていて、子供に寒そうな格好をさせている気の利かない父親だとでも思われるのは――二重の意味で――嫌だった。
「十歳くらいになれば、年の離れた兄妹くらいに見えっかな」
「その方がいい? なら、早く大きくなろうか?」
「やめろ。ってか、自分の意志じゃできないんだろうが」
「できないのよね。残念なことに」
「鳥と人間は自由自在なのにな」
「それは別よ。決まってるでしょ」
「まあ、そうだろうな」
正直なところ、よく判るとは言えなかった。「そのようなものだろうと思う」あたりだ。
「あれ、着てみる。いいでしょ? 詩人さんとの話の邪魔はしないから」
そう言うとラニタリスはぱっとエイルの肩から飛び、床に降り立つと子供の姿になった。
「おい、連れてくとは言ってないぞ」
「エイル」
その、とき。
不意に、〈塔〉が主を呼んだ。呼ばれた青年魔術師はばっと顔を上げた。それは、いまの〈塔〉の声に、これまで聞いたこともない色を聞き取った故。それとも、彼自身も感じたのだろうか。
何かが――。
「くる!」
彼は叫んだ。
修行が足りないのだ、と痛切した瞬間であった。杖を取り出すことも、印を切ることも何も間に合わない。
気づくのが遅かったのか、それとももしオルエンであったとしてもそれ以上早く気づくことはできなかったものか。それは判らない。
ただ、やってきたそれに対し、少なくともエイルは、気づくことしかできなかった。
それはまっすぐ、ここを目指してきた。
それが「何」であるのかを説明することはできない。少なくとも、エイルの目に見えるものではなかった。ただ間違いなかったのは、それが遠くからこの塔を目指してやってきたこと。
いや、この石造りの建物ではない。光が目指したのは、その内部だ。
誰がとか、何故とか、何のためにとか、そんな疑問を思い浮かべる余裕はなかった。
エイルは気づくことしかできなかったのだ。遠くから、迷うことなくまっすぐとその力が目指してきた先が、ラニタリスであること。




