06 魔術師ってやつだからな
風は次第に暖かくなってくる。
十番目の黄の月も半ばを越えればビナレス地方はすっかり春めき、〈大地の女神の微笑む日〉と言われるような穏やかな陽射しが続き出す。
と言っても、北端や南端は事情が異なり、もちろん大砂漠も一般的な季節の訪れからは除外されていた。
そこは年がら年中、太陽が飽くことなくぎらぎらと照りつけ、砂地を熱し、砂だらけの土地に建つ奇妙な石造りの塔をも睨みつけている。一方で夜になればぐんと冷え、昼はあんなに熱されていた石もすっかりひんやりとする。過酷な環境だ。
「さて」
だがその内部は実に快適に保たれていて、唯一の住人は暑さにも寒さにも苦情を言う必要はなかった。
「これでよし、と」
エイルは世辞にも上手だとは言えない文字をしたためた帳面をぱたんと閉じ、伸びをする。
「何でこんなこと、考えついちまったんだろうなあ」
「それは、前の主が全く姿を見せぬからだろう」
「まあ、そう言うことなんだけどさ」
オルエンとの間の約束は、最初の最初は、月に一度は顔を見せるいうものだった。そしてエイルに魔術の指導をするか、エイルが望まなければ塔で酒でも飲んで帰るか、エイルがオルエンの訪問すら嫌がるのであれば二度とこない、という、まるでエイルに選択権があるかのような話だったのだ。
それはだんだんと適当になっていき、「月に一度」は「だいたい月に一度」、エイルが余所にいて用事があるのだと言ってもオルエンは「いまなら時間がある」などと言って強引に連れ戻して講義をしたり、二度とくるなと言っても平気で顔を見せたり――この辺りは最初から、そのつもりだったのかもしれないが――していた。
だが、何かしらの宿題課題をエイルに与えたときは、「師匠」は塔に日参した。エイルが留守にしていても、戻ってくれば〈塔〉からオルエンがきていたとの報告があった。
それがあの日。何やら殊勝な顔をして、スラッセンの町のために若者を見殺しにするのは好まないが仕方ないなどと言って、エイルにエディスンの王子を助け出させた日以来、何の連絡もないのだ。
ついにくたばったか、と思って祝宴の準備でもはじめるには、いささか気になる最後の姿である。
あのときはエイルは、彼が泡を食うのをオルエンが面白がってあのような演技をしたのではないかと疑った。だが公正に過去を思い返してみれば、オルエンはそのような真似をして彼を騙し、楽しんだことはない。おそらくは、だが。
となると、少しばかり、気になる。
(少しだけだけどな)
気になるのはオルエンの安否よりも――あれが死んだと本気で思ってはいない――オルエンに託された「宿題」の進み具合だ。
もともとは「サラニタと呼ばれている砂漠の魔物ルファードについて調べろ」であったが、ルファードはとうに死に、残されたのは〈風謡いの首飾り〉とラニタリス。
エイルがはじめに考えていたのは「オルエンは自分に何をさせようとしているのか」という疑問であったが、次第にそれは変化をし、「オルエンは自分が何をするのか見るつもりなのだ」と判ってきた。
エイルに何ができるか、ではなく、エイルが何をするか。何を選ぶか。オルエンはそれを見ようとしている。
彼がそんなふうに考えるようになったのはオルエンが姿を見せなくなってからであったが、それはあの顔を見ると腹が立ってそのような冷静な思考ができないからである。
その冷静な思考に基づいて考えると、あの「師匠」はこの宿題で弟子を試しているかのように思えた。
具体的に何を試すつもりでいるのかまでは判らない。「本当に魔術師としてやっていくつもりがあるのか」かもしれないし、もっと単純に「自分の弟子たる資格はあるのか」かもしれない。
とにかくオルエンはエイルを観察しようとしていて――だから不思議なのだ。ぱたりと顔を見せなくなったこと。
ただ、このまま二度と顔を見せなくなるとも思えない。忌々しい借金の返済だって、終わっていないのに。
だからエイルは、師匠に対してできることをやっていた。日々の記録をつけるようにしたのだ。オルエンがひょっこり現れて「報告」を強いたとき、何か重要なことを忘れてでもいれば、うまくない。
本当にこの覚え書きたちが役に立つのかどうかは判らない。やっておこうと思ったことをやっておく、それが大事に思えた。
実際のところ、日々は停滞していた。それでも、予感というものが働くときがある。
何も、魔術師だからという理由ではない。エイルが本当にただの下町の少年だった頃から、今日はいいことがありそうだ、というような思いを感じることはあった。それは魔力の片鱗を見せていたという訳でもなく、誰にでも起こりうるふとした感覚だ。
それが今日この日、エイルを訪れていた。
(何か、ありそうだな)
根拠はない。正確なところを言えば、それが〈幸運神の視線〉であるのか、〈災い神の注視〉であるのかは判然としない。「何か起こりそうな気がする」という、実に曖昧な感覚だ。
「お仕事、終わった?」
「何だラニ。いたのか」
台所まで下りると、椅子の背から鳥が飛んできた。
「いたよー。だって別に、どこへ行けとも言われてないもん」
「どこかへ行けと言われたとき以外は、好きにしてていいんだぞ」
「だから好きにしてるの」
そう言うとラニタリスはエイルの肩にとまった。
青年は少し迷ったが、重さはほとんど感じないし――子供のときはちゃんと体重があるのに――耳元で鳴き喚きもしないので、好きにさせた。
たとえばクラーナのような吟遊詩人が小鳥を肩に乗せていたら、物語的で女子供には受けがいいだろう。だが、黒ローブ姿がそんなことをしていたら、いかにも使い魔――という単語はあまり一般的ではないが――という感じで、どうにも、ますます、見るからに、不吉で怪しい。
エイルはしかし、ここで嘆息する代わりに苦笑した。
(不吉で、怪しい)
(ま、そう思われるのが魔術師ってやつだからなあ)
ラニタリスはたいてい、塔のなかでは鳥の姿でいるようになっていた。どうやらその方がエイルの邪魔にならないと気づいたためだ。と言うのも、人間の子供の姿を目にすると、青年はどうにも服の問題だの、母への言い訳だのを考えてしまうからだ。
「使い魔」は「主人」を煩わせないようにするものであり、ラニタリスはその法則に従っていた。「大きくなる」ことだけは、意志でどうにかなることではないようだったが。
「鳥の方はあんまり成長してないように見えるけど、それはどうなんだ」
ふと、エイルはそんなことを問うた。
「やだなあ、ちゃんとしてるじゃない。エイル、目悪いんじゃないの。ほら、ちゃんと見る!」
小鳥はぱたぱたとエイルの頭の周りを飛び回った。
「判んないよ、鳥の成長具合なんざ。張り付くのはやめろ、歩けないから」
「はあい」
ラニタリスは再びエイルの肩の上で羽を休めることにしたようだ。
「ね、ね、今日はどこ行く? あたしも行く!」
「お前は、留守番」
「えー」
「〈塔〉と交流でも深めてろ。ただ、妙なことは教えんなよ」
前半はラニタリスへ、後半は〈塔〉への台詞だ。
「妙なこととは何だ。私が悪い言葉でも教えると言うのか」
心外だ、と言わんばかりの響きにエイルは謝罪の仕草をした。
「それで今日は、どこへ行く」
〈塔〉はラニタリスと同じことを問うた。もちろん〈塔〉は、自分も行くとは言わないが。
「タジャスに行こうかと思ってる。クラーナに会っておきたい」
先だってエイルは、アーレイドの導師ふたりに自分が住んでいる奇妙な塔のことと、〈風謡いの首飾り〉を持っているのだという話をしてきた。どちらの導師もそれは見てみたいだの、お前のような弱輩には相応しくないだのとは言わず、ただ「判った」と受け入れてくれた。
もしかしたら自分はとても運がいい、とエイルは考えはじめていた。
リック。ダウ。スライ。――オルエン。
誰も彼も、得難い師だ。
必要以上にへりくだるつもりはないが、自分程度にはもったいない術師ばかりだと思う。
そうなのだ。オルエンですら。――顔を見なければ。
ともあれ、ダウとスライは、エイル「術師」への伝言をうまいこと塔へ送る方法を考えてくれた。簡単に言えばいったんスライを通し、そこから塔へ送る。スライは決してその中身を知らぬようにすると言ってくれた。エイルは、スライ師には全て知っておいてもらおうかとも思ったが、これはやはりオルエンの宿題だ。導師の手を借りてはならない。
オルエンはそれを禁じた訳ではない。エイルが自分で、律したのだ。
吟遊詩人のクラーナが何か話を掴めばアーレイドの魔術師協会に伝言を送ると言っており、彼は確かにそうした。と言っても何か重要な話が判ったと言うのではない。気の回るクラーナは、「特に何もない」こともきちんと知らせてくれるのだ。
〈便りのないのは順調のしるし〉とは言っても、待っている方は報せがほしいものである。クラーナはその辺りを理解して、エイルがやきもきすることがないように、まめに報告をしてくれた。
それが、昨日に知らせてきたところでは、「タジャスではもう何も掴めそうにないからそろそろ発とうかと考えている」というようなことだった。
クラーナがタジャスまで行ってくれたのは、エイルを手伝ってくれることもあったが、ギーセス男爵に会ってみたいという理由もあったはずだ。なのに旧知の男爵の領地を離れても、エイルに協力してくれると言うのだ。
(俺はそんなに、頼りないかね?)
エイルは少し苦い笑いを浮かべた。商人が雇った魔術師にエイルが対抗しきれなかったことをクラーナは知っており、それを案じて、早くこの件を解決してやりたいと思っているかのようだ。
(弟分ごときにそこまでつき合ってくれなくていいとも思うけど)
(有難いことは、確かだな)