10 お前が守るのは
さっきから窓の外では、砂色の鳥となったラニタリスが行ったりきたりしている。いかにも「まだ終わらないの? 早く帰ろうよ」と言っている風情だ。
ヴォイド執務長は、エイルから簡単な話、或いは報告を聞くと彼自身の仕事に戻っていった。忙しい執務長としてはいつまでも悪ガキどもに関わっていられない、というところだ。
そうなるとエイルはひとり、ランティム城の応接部屋で香辛料の利いたクラル茶をすすりながらシーヴを待つことになった。エイルとしてはランティムに用などないのだが、帰る前にシーヴには挨拶くらいしていくべきだ、と考えたのだ。
それは必ずしも王女殿下――または王子殿下――に接するために叩き込まれた礼儀作法のせいだけでなかった。黙って帰りでもすれば、シーヴは反省もそこそこに、エイルに苦情を言うために塔まで追ってきかねないからだ。
エイルが待ちくたびれない程度に時間が経ってから、予想に違わぬ苦い顔で、ランティム伯爵はやってきた。
「で、お元気だったか、奥方様は」
「知ってたのか」
じろりと視線が飛んでくる。エイルは肩をすくめた。
「『知ってた』はずはないだろ、伯爵閣下が慌てふためいて退座されたあとで聞いたんだ」
「ヴォイドめ」
シーヴは品のない罵り言葉を幾単語か続け様に発したが、しかしそのあとで言ったことを取り消す仕草をした。
「まあ、悪いのは、俺だ。レ=ザラも何と言うか、こうした状態のときには普通の体調の悪さと言うか……もちろん、案じはするが……」
もごもごと言いながらシーヴはエイルの向かいに腰を下ろした。
「言っとくが」
今度はエイルが友人を睨んだ。
「自覚すりゃいいってもんじゃないぞ。反省ののちにはちゃんとした行動が要求される。それをこなしてこそ、謝罪が活きるってもんだ」
「そんな言い方をするなよ。ヴォイドみたいじゃないか」
悪びれずに言うシーヴをエイルはますますきつく睨みつけてやる。
「誰の存在と行動と言動がヴォイド殿のみならず俺にまでこんなことを言わせると思ってるんだっ」
「さて」
砂漠の王子は首を傾げた。
「どこの誰かな」
自分が悪いといった舌の根も乾かぬうちに、これだ。こいつはいまに絶対刺される、とエイルは思った。
「シーヴ」
エイルは咳払いをして言った。
「ひとつ、貸しだぞ」
「何?」
「伯爵閣下のご乱行について、俺の口から理由と経緯と結果を説明しておいた。お前が話せばヴォイド殿は相当に割り引いて聞くだろうが、俺からなら引いてせいぜい、二割だろう」
「それで、二割増しの話をしてくれた訳か」
「阿呆。誇大に話したりするもんか。俺は正直で素直なの。脚色もなし」
お前じゃあるまいし、とつけ加えてやる。
「俺がヴォイド相手に下手に話を作れば、八割引かれるところか、全部出鱈目に思われる。あいつには、やらないさ」
「そりゃけっこうなこった。できるなら、お前に関わる全ての人間に対してそうしろよ」
「できるはずがないだろう」
「だろうな」
常に素直で正直なシーヴなど、逆立ちして曲芸する猫より有り得ない。
「ランティムの品を粗悪に模造されたことは、ヴォイド殿も知ってたし、問題だと思ってたらしい。だからってお前が直接動くこたないってのは俺と同意見だったが」
「やってしまったものは仕方ない」
「お前が言うな。まあ、俺はそう言っておいたけどな」
ヴォイドは納得したとは言い難かったが、エイルを責めることはなかった。「悪いのはリャカラーダ様だ」と言う訳である。全くもって事実な上、強力な同志の存在にエイルはとても救われる思いだった。
「大がかりな偽物屋が背後にいたことも話した。不本意ながら俺がかけた呪いのこともね。そんな話をすればたいていはびびられて、厄除けの印でも切られるところだけど」
「平然としてただろうな」
「その通りだよ」
たとえそれが演技であったとしても、大したものだ。魔術などは忌まわしく怖ろしい、そう思わない方がおかしい、というのが一般的なのである。
「あいつは可愛くないんだ」
侍従の主は唇を歪めた。あの執務長が可愛かったら下手な魔術より怖いのではないか、とエイルは思う。
「リャカラーダ閣下は東国をお守りになった、と話したよ。多少は、評価が上がるんじゃないのか」
「甘いな」
シーヴは首を振った。
「ヴォイドは、俺がどんな善行をしても穴を見つける。今回なんざ、本気で罷免する気だったぞ」
「まあ、そりゃ、まあ、その、何だ。そうされても仕方のないことをしたんだから」
「どっちなんだ」
かばうのか蹴落とすのかはっきりしろ、とシーヴ。
「公正な観点から言えば、どっちもやるっきゃないだろうが」
エイルはうなった。シーヴこそ、エイルが何をしても文句を言う。親しさ故だとは、判っているが。
「俺としちゃ、捕縛されなかっただけいいさ。それじゃ、シーヴ。そろそろ行くよ」
「何」
シーヴは片眉を上げた。
「帰るつもりか」
「そりゃそうだ」
エイルは当然の返答をした。
「ふざけるな。約束が、まだだぞ」
「約束?」
エイルは眉をひそめた。恍けたのではない。本気で、判らなかった。
「タジャスで、何があった」
「……ああ」
思い出すとがっくりとエイルは肩を落とした。シーヴを帰して万事めでたし、と思っていたのに――商人の話などすれば、シーヴはまた抜け出す算段でもするのではなかろうか。もちろん、ヴォイドはそれを容易にはさせないに違いないが。
「お前には、関係のないことだよ」
嘆息してからエイルはそう言った。シーヴの表情が険しくなる。
「エイル」
「本当だって。言っただろう、魔術が関わる。協力はウェンズとクラーナにしてもらう。お前の件は、ここまで」
どうしてよりによって、あの商人クエティスがランティムの品を模造してくれたものか。どこかほかの町か、或いはランティムを騙ったのがクエティス以外の偽物商人であったならば、シーヴに隠しごとをしている後ろめたさを覚えずに済むのに。
「協力してもらいたいことがあれば、連絡をするさ」
そう言うと、話は終わりだとばかりにエイルは立ち上がった。シーヴも同様にするが、それは素直に見送るためであるはずがなかった。
「隠しごとをするな」
「隠してなんか……魔術には関わりたくないだろうと思って」
「ああ、魔術にはな。こりごりだ」
「だろう?」
「だがお前が妙なことに巻き込まれているなら、俺の件だけ終わらせてこの場に留まってなど」
「いろっ」
「いられない」と言われる前にエイルは言った。
「いられない」
だがシーヴはエイルの制止をものともせずに続けた。
「レギスで言ったことは、本気だぞ」
「言ったって何を……ああ」
エイルは苦い笑いを浮かべた。今度は守ると王子殿下は仰ったのである。
「やめろよ。ゼレット様じゃあるまいし」
「そういう意味じゃない。判ってるだろうが。そんな言い方でごまかされやしないからな」
「ごまかしてなんかいない。ただ、お前は二年前だって充分やってくれたじゃんか。俺は感謝してるよ」
「感謝がほしくてやったんじゃない。俺は俺のしたいようにした。だが、最善だったかと言うと判らない。ほかにも道はあったようにも思う」
悔やむようなシーヴの台詞にエイルは首を振った。
「過去のことはいいだろ。もう終わったことだ。いまさら、ああすればよかったなんて言ったってはじまらないし、いてほしくない奴はいなくなったんだし、ビナレスは安泰、翡翠も平穏、結果は上々だ」
「大局を見ればな。だが俺は、納得いっていないんだ」
「じゃあ何か?」
エイルは友人を睨んだ。
「俺は、お前の手は要らないって言ってるだろ。お前は、自分が納得したいから俺の件にくちばしを突っ込みたいって?」
苛立った、ふりをした。もちろん、シーヴがそんなつもりでないことは知っている。知っていながら、エイルは続けた。
「いい加減にしろよ、伯爵閣下。お前が守るのは〈翡翠の娘〉なんかじゃない、この町と、レ=ザラ様と、お腹のなかの赤ん坊だろ」