03 飛んでいっちゃった
砂漠の陽射しは強い。
ビナレス地方が冬であろうが何であろうが、お構いなしと言うところだ。
エイルは強く照りつける太陽に顔をしかめながら、足を速めた。集落までは数分だ。
〈塔〉の移動術は正確で、やろうと思えば集落のすぐ脇にでも真っ只中にでも彼を送り届けることができた。だがエイルは可能な限りそれを避け、少し歩かねばならない場所へ移動した。
あからさまに「魔術師です」と言いたてるような行動をするのは、いくら砂漠の民たちが偏見を持たぬとしても、彼の好みではないのだ。
「ああ、エイル! たいへん!」
彼を認めた娘は、慌てたように言った。その言葉にエイルはぎくりとなる。
「どうした! 何かあったのか!?」
青年は砂漠の娘を検分するように見たが、悪魔と化した子供に襲われたというような形跡はなかった。
「何があったんだ、ミン?」
「それが」
ミンと呼ばれた肌の黒い娘は実に困ったような顔をした。
「いなくなっちゃったの。あの子」
「目、覚めたのか?」
エイルは慌てた。しかし、それにしたって、幼児である。かろうじて立って歩くことはできるようだったが、このウーレの集落から誰の目にもとまらずにどこかへ行ってしまうとは思えない。
「そう、ついさっきのこと。起きたから、泣いちゃうようならあやそうかなって思ってたら、急に」
「急に?」
「飛んでっちゃったの」
「……何?」
少なくとも人間の子供に見えた。背中に、悪魔のものだろうと天使のものだろうと、翼なんてついてなかった。そのはずである。
「飛んでった? 何かのたとえ、だよな?」
そうであってほしいと思いながらエイルは言った。だが、砂漠の民はあまり言葉を飾らない。飛んでいったとミンが言うのなら、飛んでいったのだ。
「あのね、エイル。あの子、鳥の化身だったのよ」
「鳥ぃ!?」
「そう。突然、これくらいの」
言いながらミンは両手で十五ファインくらいの大きさを作った。
「鳥になって。砂漠と同じ色の羽根をしてた。きれいだったわ。ねえエイル、もしかしたらあの子、砂神の使いだったのかしら?」
「その、それは」
エイルは困惑した。
「期待を砕いて悪いけど、たぶん、違う」
「そう? 違ってもいいわ、きれいだったもの」
ミンは繰り返すとにっこりとした。
「あの子、ミンがびっくりしてる間に、天幕の入り口を抜けて飛んでいっちゃった。ごめんね、エイル。任されてたのに」
「いや、その、いいよ、こっちこそごめん」
エイルはどうにか、そう言った。何だかさっぱり判らないが、いなくなってしまったものを――それも飛んでいってしまったものを追いかけようと思っても難しいし、正直に言えば、いなくなったことに安堵の息さえ洩れるというものだ。
「あの、さ」
「何?」
彼が言いにくそうにすると、砂漠の娘は首を傾げた。
「この話、シーヴにはしないでくれってのは……無理か?」
そう言うと娘は陽気に笑った。
「無理ね。シーヴ様がきたら、あたしは全部話すわ。シーヴ様に隠しごとはしないもの」
「だよな」
エイルは嘆息した。
「でも、シーヴ様がこなくなってずいぶん経つから」
ミンはしゅんとした。エイルはまた慌てる。
「ああ、ほら、忙しいんだよ。あいつ、あれでも」
「判ってるわ、シーヴ様のことなら、エイルよりずっと」
娘は拗ねたように言った。
「判ってるの。少し寂しいけど、シーヴ様は奥方様を大事にすることにしたんだわ。いいの。ミンにだって旦那様がいるんだし、幸せだもの」
言いながら、ミンの顔は朗らかになっていった。どうやら強がりではないらしいが、エイルはここの男女関係の難しさに何とも口を挟めず、ただ、そうか、と言った。
「でも、どうしよう? エイル、あの子」
神秘の砂漠に生きる娘は、赤子が「鳥になって飛んでいった」ことを簡単に受け入れているようだった。その問いはまるで、「勝手に遊びに行った隣の子を探しに行こうか、好きにさせておこうか」と言っているくらいの感じだ。
「どうしようもないだろ。飛んでっちまったんなら、なあ」
にわかには信じがたいが、ミンがそんな嘘をつくはずもなく、エイルは本音を言った。どうしようもない。
「変なこと頼んで、ごめんな。ラグによろしく言ってくれ」
「あら、帰っちゃうの?」
「ああ。調べたいこともあるし」
鳥の化身など、聞いたこともない。オルエンは当分こないという話だから、彼の蔵書からでもどこかの協会の図書室からでも、調べてみなくてはならない。いや、調べるのなら〈風謡いの首飾り〉についてだろうか?
エイルは首を振った。
「突然、忙しくなっちまったみたいだ」
「そう、残念。でも、またきてね」
「有難う、そうするよ」
そう言うと魔術師の弟子は天を仰いで、予想だにしない方向にとんでもない勢いで――飛ぶように――広がっていく「修行」にため息をついた。