09 戯けたことを
「おや」
その第一声は、エイルにとっても、おそらくはシーヴ――ヴォイドの前ではリャカラーダ――にとっても、少し意外な響きを帯びていた。
東国の者たちはシーヴ同様に濃い色の髪と肌をしている。初めてシーヴを見たときはずいぶんと異国的に感じたエイルも、いまではだいぶ見慣れた。はじめのうちは表情が読み難いと思ったものだけれど、やはりいまでは、西の者たちと同じように表れる感情を見て取ることができるようになった。
いまのヴォイドの声音にあるものは、しかし判定しづらかった。
怒っているのでも呆れているのでも、叱責でも――シーヴに言わせれば、何か悪いものを食べでもしたために――安堵の色でも、ヴォイドの声ににじみ出るのがそれらのどれかならば、判る。
だがいま、リャカラーダ王子の第一侍従は、残念だと言わんばかりの声を出したように聞こえたのである。
「お判りでしたか」
ヴォイドは「リャカラーダ」の姿を認めるとゆっくりと言った。
「何がだ」
シーヴは片眉を上げた。ヴォイドは首を振る。
「では、お判りでない。となりますと、例によって偶然や悪運の類ですか。忌々しいにもほどがありますね」
ヴォイドはため息をついた。
「あと二日ばかり余所でうろついていらっしゃれば、あなたは望み通りにありとあらゆる責任から解放されるところだった、という話です」
「何だと?」
シーヴ、それともリャカラーダは面白そうな顔をした。
「たかが数月を留守にして、俺は首にされると?」
「正式な文書が作成された日からきっちり五十日。それを超えて領主の失踪が続けば、執務長は領主の交替を王に進言することができます」
「誰が失踪したと言うんだ。ちょっとばかり旅に出ただけだろう」
ランティム伯爵は肩をすくめた。エイルはこっそり指を折る。このランティムをあとにしてから、ざっとひと月半近く経ったろうか。
となると、ヴォイド執務長はお怒りのあまり、正式な文書を伯爵失踪のすぐあとに作成したことになる。
「あなたがどういうつもりでも関係ありません」
きっぱりとヴォイドは言った。
「リャカラーダ様。あなたにはほとほと呆れ果てました」
ヴォイドは淡々とそんなことを言った。いつもなら伯爵閣下は、執務長の説教、抗議、非常に真っ当なる台詞の数々をにやにやとしながら混ぜ返し、聞き流す。しかしこのときは、その淡々としすぎる様子にシーヴはどきりとしたように見えた。
「俺の身勝手など、いつもの、ことだろう」
彼は少し間をおいてからようやく、そう返した。ヴォイドは表情を変えないままでうなずく。
「ええ、そうですね。ではそう言われるのですな、『俺のいつもの身勝手なのだから何も気にするな』と。夫を案じるあまりに食を細くし、血を薄くして二度倒れられ、病の床にある、妊娠中のあなたの妻の前で」
「な」
これにはシーヴは絶句した。エイルもはっとなる。
「どこだ」
「何がです」
「レ=ザラに決まっているだろう、どこだ」
「おや」
ヴォイドは片眉を上げた。
「まさかお会いになりたいなどと戯けたことを言われるのでは」
「ヴォイド!」
「何です、リャカラーダ様」
執務長はじろりと主を睨んだ。
「自由奔放もけっこうですが、それが誰かに負担をかけることを本当にお気づきではないのですか。私はかまいません、務めなのですから。ですがレ=ザラ様は」
「――あとで聞く!」
そう言うとシーヴはぱっと踵を返した。ヴォイドの説教を聞くよりも先にやることがある、という訳だろう。エイルは少し鼓動を早めてそれを見送った。レ=ザラのことは気になっていたが、まさか。
「少しくらいは反省すべきです」
エイルと同じようにその後姿を見送った執務長は、ふんと鼻を鳴らした。その様子にエイルは、ぴんとくる。
「……もしかして、ヴォイド殿。いまのは、嘘っぱちですか」
「レ=ザラ様が体調を崩されたことは事実ですから、完全に嘘という訳でも。少し目眩を起こされた程度ですが、いまのご状態を思えば、あのようなたとえ話では足りないくらいです」
ヴォイドはきっぱりとそう言うと、安堵の息を吐いたエイルに改めて視線を移した。
「こうしてここまで閣下とご一緒だと言うことは、罰を受ける覚悟はおありだと」
「それは」
エイルは生唾を飲み込んだ。
「もしかして、俺の、話、なんですか」
彼は一言ずつ区切るようにして言った。ヴォイドはじっとそれを見たままである。
「伯爵を拉致した悪い魔法使いなんて評判は、お断りし申し上げたいんですが」
「ご安心めされよ。せいぜいが閣下の悪い友人、という辺りですからな」
その言葉にエイルは天を仰ぐ。それだって嬉しくない。もちろん、ヴォイドにエイルを喜ばせる義理などなく、それどころかエイルは極悪人として捕縛をされても文句を言えない──言いたいが──立場であるのだ。
「のらりくらりとうろつきたがる王子様を必死で連れ戻した俺の努力と精神的苦痛については誰も褒めたり哀れんだりしてくれないって訳だ。そうだよな、判ってる。俺は報われないんだ」
エイルは半ば以上本気で嘆息したが、それはどうにも芝居がかって見えた。
「あのですね、ヴォイド殿。言い訳になるこた判ってますが、言わせてください。俺は、あの口先ばっか弄する舌先三寸の魔術師を」
そこで、ヴォイドはふっと笑った。
「なかなか適切な言い方をされますな」
厳しい執務長の様子が緩んだ。どうやら本気で何らかの刑罰を与えるつもりではなさそうだ、とエイルは肩の力を抜く。もしかしたらヴォイドは、先に「リャカラーダ」に対してやったのと同じように、エイルに対しても「反省すべきだ」と考えて脅しをかけたのかもしれなかった。
「判っていますよ。リャカラーダ様が無茶苦茶なことを言って、むしろあなたを連れ出したことくらいは」
ヴォイドは澄まして言い、エイルはむせかけた。慧眼である。と言うより、さすが長年のつき合いというところか。
「ただ、領主の責任放棄は重罪です。その教唆、及び協力も」
エイルは言葉を返せなかった。「教唆」については反論したいが、「協力」の部分はいかんともしがたい。
「自分の望みと相容れないものは見なかったふりをする。これはあの方の悪い癖だ。シャムレイの王宮では見逃されてきたこともありますが、ここではそうはいかない」
「シーヴはその辺り、しっかり判っていると思いますよ」
ついエイルはそう言った。ヴォイドの片眉があがる。出過ぎたか、とエイルは思ったが、侍従の叱責は彼の予想とは異なる方向からやってきた。
「リャカラーダ様、とお言いなさい」
幼名を名乗る悪癖から改めさせなければなりません、と執務長はぴしゃりとやった。




