08 伯爵閣下の理屈
でき得ることならば、ランティムには足を踏み入れたくない。
エイルはそんなふうに思っていた。
タジャスの魔術師協会からランティムに最寄りの協会に跳び、そこからシーヴの町までは一日とかからなかったのだが、その町が近づくに連れてエイルはかなり本気で不安になっていた。
と言うのは、彼は危ぶんでいたのだ。シーヴはいつだったか冗談めかして言っていたが、エイルとしては、本当に、ものすごく、有り得る話だと考えていた。
何の話かと言えば、ランティムの執務長が、伯爵を拐かした魔術師を賞金首として手配しているのではないか、という話だ。
もちろん申し開きならばいくらでもできる。しかし、エイルがリャカラーダ伯爵の脱走に一役買ったことは紛れもない事実である。
「何か、びくついてないか」
シーヴは面白そうに言った。
「さっきまでは機嫌がよかったのに、突然周囲を気にしはじめて」
「機嫌? よかったか?」
エイルは「びくついている」よりも「機嫌がよかった」の方が気になって首をひねった。シーヴは肩をすくめる。
「そうさ。やたらとにやついてたじゃないか。さてはアーレイド城で使用人の娘と逢い引きの約束でもしてきたのかと」
「そっ、そんなんじゃねえよ」
正確には使用人ではなく侍女で、生憎と約束は何もしていない。
「お前を帰せるのが安心なだけさ」
それも事実であったので、エイルはそうとだけ言った。
「なら、今度は何が心配だ」
「いや、影から俺を捕らえに町憲兵が走り出てこないかと」
思わずそんなことを言うとシーヴは笑った。
「何だ。俺が言ったことを本気にしてるのか。安心しろ」
ランティム伯爵はにやりと笑う。
「この町にはちゃんと法があるんだぞ。犯罪人を裁きにもかけずに処刑したりは、しない」
「それのどこが安心できる台詞だっ」
犯罪人だと言われたも同然である。エイルは悲鳴を上げたが、シーヴは全く気に留めなかった。
「リャカラーダ伯爵」のご意向により、ランティムには目立たぬように入った。だがこの東国真っただ中ではエイルの薄い肌はどうしても目立つ。シーヴが中心部付近で目立つほどではないが、少なくとも余所者だとは丸判りだ。
ヴォイドは決して暴君ではないから、ランティムにやってきた余所者をことごとく斬り捨てよだとかそんな命令はしていないだろう。
だが、油断は禁物だ。すぐさま手討ちとまではいかなくともすぐさま捕縛くらいはしそうだ。
(ヴォイド殿のことだ、ついでに)
(……「シーヴ」もお縄にするかもな)
何しろヴォイドは、リャカラーダという名を持つ彼の主人がいつまでも幼名のシーヴを名乗り続けるのが気に入らないのである。罰として、エイルともども主人を一晩留置場にぶち込むくらいのことは、やりかねない気がした。
もっとも幸いなことに町憲兵の捕り物に出会うことのないままで、ランティム伯爵リャカラーダとその友は館の裏口をくぐり抜けることになる。
「行方不明」だった領主の唐突なる帰還に館の者たちは仰天した。当然である。
「閣下!?」
「お、お帰りなさいませ」
「すぐにヴォイド殿に連絡を」
「いや、レ=ザラ様に」
「ええい、静まれ」
当の彼らの前で右往左往する使用人たちに、シーヴ、いやリャカラーダは苛ついたような声を出した。――誰のせいで彼らが困っていると、思っているのか。
「先触れは要らん。ヴォイドは執務室か。帰還の報告は、俺自身でやる」
そう、尊大に仰った。エイルは呆れ、袖を引っ張って説教してやることにする。
「おい、誰が悪いと思ってんだよ?」
「もしかすると、俺か?」
「もしかしなくてもそうだっ。判ってんなら偉そうな態度とんなよな」
「俺が泣いて謝ったら不気味だろう」
「そりゃ不気味だが、そういう問題でもない」
「くよくよ考えるな。多少ばかり留守にしてたって、俺はここの主なんだ。俺が下手にでも出たら、奴らは却って困惑する」
それが伯爵閣下の理屈であった。判るような気はするが――エイルだって、たとえばアーレイド王が娘のわがままを彼に詫びでもしてきたら、ものすごく困るだろう――はいそうですかと納得してやるのも悔しい。
「そういう勝手を」
「いいからこい。こっちだ」
エイルの反論を制してシーヴは友人の手を引いた。
「……まさか俺を避雷針にしようなんて思ってるんじゃないだろうな」
はたと気づいてエイルは言った。当然のようにシーヴがエイルを伴おうとするのについつい釣られてきてしまったが、彼がここまでついてくる必要がどこにある?
「まさか」
伯爵閣下は笑って肩をすくめたが、それはいささか、わざとらしい。
「お前が犯罪人として手配されてたら、ちゃんと解かなきゃならんだろう? 町憲兵隊長に申し開きするより、ヴォイドにした方が早い」
それがヴォイドの主の理屈であった。
エイルはやはり納得いかなかったものの、本当に手配されている危険性を鑑みて、渋々ながら同行をすることにした。
ヴォイド執務長は、行方不明の伯爵閣下の代行に大忙し、或いは普段と何も変わらないとばかりに業務に励んでいるようだった。
エイルはヴォイドと顔を合わせたことがあるが、それはシャムレイの王城にて一度だけだ。あのとき、ヴォイドは第三王子の第一侍従という身分だった。
いまでもそれは変わらないが、執務長となった時点で王子殿下の世話よりも町の面倒を見なくてはならず、それはもう忙しいらしい。
王子と伯爵ならば「偉い」のは王子かもしれないが、多忙さでは小さくても町の全てを仕切る伯爵の比ではない。
それはつまりこの場合、リャカラーダではなくヴォイドの仕事量が増えたことを意味するのだ。
ヴォイドは仕事自体への文句は決して言わないようだが、何だかんだとさぼりたがる主への視線と叱責の厳しさはシャムレイ時代から倍増したということだ。当然である。
はじめのうちは、エイルがランティム城まで足を向けなかったのは伯爵の業務を邪魔しないためであった。〈野狐の穴蔵〉亭がシーヴの気に入りであることを知り、いつか行き会うこともあるだろうとのんびり考えていた。
その日は予想以上に早くやってきて、エイルは――勝手にくることはよいとして、勝手に帰っていたことに――予想以上の罵倒を浴び、見かねたロンダ少年の仲裁によって、伯爵閣下の言葉の暴力から逃れることができたのだった。
エイルとしてはシーヴとたまに話せればそれでよかったが、「リャカラーダ」にしてみればそれは唯一にして最大の息抜きであるようだ。エイルの訪問は何を置いても優先され、それを知ったヴォイド執務長の冷たい怒りはかなりのもので、ロンダはヴォイドに捕まったら殺されると半分以上本気で心配をしている。
ましてや、今回は城を脱け出しただけでは済まず、ランティムも「東国」もあとにおいての大脱走劇だ。
シーヴがいかに「事情があった」「町のためだった」と言ったとしても、伯爵本来の業務を放り出して勝手に駆け出した事実は変わらない。
執務長の怒り、落とされる雷 の威力はいかばかりか、とエイルは危惧していた。
町にふらりと出かけていく伯爵を引っ捕らえるのに執務長が自ら出向く時間はなく、リャカラーダを城へ連れ戻すのは主にアルセント執務官だった。よって、エイルがヴォイドの顔を見るのは久しぶりと言うことになったが、はなから仲良くできる間柄ではない。エイルの方はヴォイドに含むところがなくても、向こうには多大にあるはずである。
いざヴォイド執務長の前に立って悠然とするシーヴの隣で、エイルはやたらと緊張することになった。