06 やめたのよ
アーレイド城でもらえる給金は月に一度支給されるという形になっている。
「形になっている」というのは、帳面上にそう記されるというだけで、現実に銀貨を受け取る訳ではないからだ。
給料をもらっている者は、金が必要になれば専用の窓口へ行って、必要な分を受け取る。城内で衣食住をまかなえる使用人などは、外へ食事や買い物に行くときくらいしか必要にならないから、普段は銀貨を持ち歩かないのだ。
エイルは衣食住ともに自分で用意する身であったが家賃は不要で、なおかつ衣食の方も下町時代の習慣のまま質素であったから、オルエンへの借金を返す以外は大きな支出はない。
そうなると帳面にはそこそこの金額が記されていることになったが、母にラニタリスの面倒を見てもらっていた間の世話代、シーヴへの貸し出しに、あとは子供服、と近頃は金を受け取りに行く機会が増えていた。
彼の金であるからして、会計係が何に使うのか問い質したり、最近金遣いが荒いんじゃないかと咎めたりすることはない。
だが何となく、気が引ける感じも、する。
受け取った銀貨を小さな袋に詰め直し、そそくさと城をあとにしようとしたエイルは、しかしそこで思いがけない顔と久しぶりの再会をすることになった。
「あ」
「あら」
ばったりと角で鉢合わせたその姿に、エイルは目をしばたたく。
「エイル。久しぶりね」
「あ、ああ、そう言や、久しぶりだったかな」
言ってから呪いの言葉を吐きかける。言われてみなければ思い出すことなんてなかったのだというような皮肉には聞こえないだろうか?
「何でも、忙しく飛び回ってるんですって?」
「まあ、な」
言いながらエイルは、王女の侍女の制服を着た同年代の娘を見やった。
「そっちも忙しいんだろ、レイジュ」
「別に。普段通りよ」
青年の元恋人は肩をすくめた。
「シュアラ様のご予定に合わせて動くだけだもの」
「そこはまあ、普段通りだろうけど」
エイルは少し迷ってから――続けた。
「決まったのか。その」
言いにくい。
「日取り、とか」
「何の?」
レイジュは小さく首を傾げた。エイルは、今度は声に出して呪いの言葉を吐く。
「結婚の、だよ」
「――誰の?」
その返答に青年は口を中途半端に開けた。レイジュは彼をからかおうと言うのだろうか?
「誰って、お前」
「ああ」
判った、というようにレイジュは手をぽんと叩いた。
「私の結婚の話」
ほかに何があるというのか。
「何だ、それじゃ聞いてないのね」
「……何を」
今度はエイルがそう返した。まさか、彼が忙しくしているうちに、とっくに人妻になっていたとでも言うのだろうか。だとしたら、こんな質問はものすごく馬鹿げている。
「やめたのよ」
「……はっ?」
「何よ。聞こえなかったの。やめたの」
「……何を」
彼はまた言った。もしや、とは思うが――勘違いしたら、とてつもなく、馬鹿すぎる。
「からかってる訳?」
レイジュは不満そうに声を出した。エイルとしては、こちらの台詞だと言いたい。
「わたくしは、結婚なんか、しません」
「なっ」
その宣言にエイルは金魚のように口をぱくぱくとさせた。
「何で! だって、決まってたろ! あとは正式に婚約して日取り決めて」
「だからやめたって言ってるでしょっ」
侍女はかみつくようにした。
「聞いてくれる、エイル? あの男、私が求婚を受けて、いざ話が進み出したら何て言ったと思う?『やっぱり城勤めはやめて、僕の館にいてくれないか』よ!? 冗談じゃないわ、何で私がファドック様のお側を離れなきゃならないのっ」
「……ええと」
エイルは眉間に指を当てた。
「つまり」
「そうよ、振ってやったの。だいたい『侍女の仕事を続けたい』ってのは家のことより仕事をしていたいって意味じゃないわ。私はお茶汲みが好きでたまらない訳じゃないのよ。侍女でいたいって言うのは、つまりはファドック様を見ていたいからに決まってるじゃないの。そんなことも判ってなかったのかしら」
「それは、判ってたから、離したかったんじゃないのか」
控えめにエイルは言った。普通、自分の妻がほかの男に夢中だったら、嬉しくないはずである。
「そんな狭量な男はお断り」
すげなくレイジュは言った。
「受けたのはお父様のためもあったけど、こうなったら勘当されたっていいと思ったわ」
「おいおい」
思わず、エイルは言った。
「まずいんじゃないのか。下級でも、貴族の不興なんか買ったら」
「平気よ」
レイジュは肩をすくめた。
「シュアラ様に直談判したんだもの」
その返答にエイルは目をしばたたく。
「……ええと、何て?」
「事実をそのままお話ししたのよ。侍女を続けていいというお話だったのでお受けしたのに、いまさら辞めろなんて酷い、私はお側を離れたくありません、って」
もちろんレイジュが離れたくないのは「シュアラの側」ではなく「ファドックの側」である。王女はそれに気づいたにしろ気づかなかったにしろ、気に入りの侍女に去られるよりはいてもらった方がよいと、自らその貴族に書を綴ったのだと言う。
そうなれば、王女の意向を無視してまで話を進められないし、「忠意」故に貴族の息子を袖にした侍女やその父親に嫌がらせの類をすることもできまい、という訳だ。