05 吟遊詩人の歌
「さて。君にはまだ選ばなければならないことがある。あのとき言ったように、選ばないこともまた選択肢のひとつ」
魔術師たるか否か。クラーナが言うのはそういうことなのだろうか。詩人は、「首飾り」の語を使うことを避けるのと同様に「エイルが魔術師である」と取れる語を発しないようにしていたから、意図を明確には掴めない。
「選ばないことは、できないよ」
あのときと同じようにエイルは言った。
「いつかは決めなけりゃと思ってる。でもそれが先ならいいとは、思っちまってるな」
クラーナが発したのがどちらの問いであっても、その返答は同じだった。首飾りについてならば、「いつかは命を賭ける覚悟をしなければならないかもしれない」。魔術師についてならば、「いつかは魔術師たることを心に決めるかもしれない」。
どちらにしても――先ならいいとは、思う。
「それが囚われるってことさ」
クラーナは言った。
「何か、動くきっかけがあるといいね。君のために」
詩人はそんな言い方をすると、それ以上エイルに選択を迫ることはしなかった。
エイルは何となく身体を動かす。
クラーナは、エイルの事情をよく知っている。この世でいちばんよく知っていると言ってもいいくらいだ。
彼らの道は、それぞれの一年間において、同じものであるはずだった。それが狂ったのが誰のため、或いは「運命」と言われるものを含む何のためであったとしても、問題の一年はどちらにおいても大いなる波瀾、進む道の変化をもたらした。
結果としていまは「旅の吟遊詩人」と「駆け出し魔術師」であるが、エイルが生まれるよりずっと昔にクラーナを襲った悲劇――オルエンの悲劇だとは絶対に言ってやらない――がもしなかったら、彼らはいま、いったいどうしていたものか。
少なくとも、エイルがクラーナに会うことはなかったのだろう。
(俺も魔力なんか持たなかったかも)
(そうなりゃ、〈塔〉の機嫌を取ることも、爺さんに腹立てることも)
(訳の判らん首飾りだの鳥だのガキだの王子殿下だのに翻弄されることもなかった、と)
そうあってほしかった、と思わなくもない。
だが、エイルは知っている。クラーナと出会うことがなくても、彼自身は狙われた。そうなれば、オルエンの助力はなく、結果として――。
(いまの迷いなんざ贅沢に思えるような酷い羽目に陥ってただろうな)
(それに、万一あいつをどうにかできていたとしても)
(首飾りのことは……俺が見つけなければどうなったかは、オルエンが言った通りだ)
西の町を滅ぼしたかもしれない。砂漠の民の間に争いごとを起こしたかも。だがエイルは、そんな遠くの出来事に興味を持つこともなかっただろう。
仮定の話に意味などない。それは判っていた。ただ結果があるだけである。
つまり、エイルは魔力を持ち、塔で過ごし、オルエンの指導を受け、首飾りと子供を拾って、シーヴに協力をし、それらのために困っている。
それだけのことだ。
ふっと気配を感じてエイルは振り返った。
「さて詩人さん」
先から二、三カイも経ったろうか。一段落したと見えて、商人クエティスがふたりの旅人の卓に再び現れたのである。
「お約束通りに、何か聞かせていただけますかな?」
ひと仕事終えてくたびれたと言うように、クエティスは空いた椅子を引いた。
「そうだね、どんな曲にしようか」
クラーナは考えるようにした。エイルも迷う。
エイルの場合は別に詩人のどんな歌が聞きたいか悩む訳ではなく、ちょっとした警戒心が頭をもたげたのである。
通常であれば、たとえば銀貨と商品は対で、どちらか片方だけが動くことはないものだ。だが「持ち逃げ」ということもある。クラーナが歌ったからと言って、商人が話をする確証はない。
もっとも、金銭の利害が絡まない、ょっとした口約束だ。先に念を押すのも奇妙なことだし、もし「聞き逃げ」をするようであればそのときに苦情を言えばいい。ましてや信用が大事な職種だ――偽物屋な訳だが――、娯楽の少ない町びとの人気者である旅の吟遊詩人とつまらない揉めごとを起こす気はないだろう。
「あの曲か、それともこっちかな」
クラーナは自身の持ち歌から選曲を迷うように視線を弦楽器に定め、少しすると「よし」と呟き、どこか悪戯っぽい表情をした。
――ように思えたのだがそれはエイルの気のせいであったものか、詩人はエイルと視線を合わせることも特にしないままですっと立ち上がった。
「ご主人に許可をもらってくるよ」
吟遊詩人は歓迎されるが、かと言ってどこでも勝手に歌い出していいというものでもない。町角ならばともかく、店内にいる以上は店の主人の許しを得ることが必要らしい。詩人たちには組合のようなものはないし、厳密な決まりごとなどないはずだが、不文律というところなのだろう。
クラーナは店の奥に向かって主人に声をかけ、結果としてエイルはクエティスとふたり、残される。
(さて、どうしたもんか)
先はクラーナが巧く話を運んでくれたが、詩人はとっとと自分の舞台に行ってしまった。
もし詩人が「いや、駄目だ。歌よりも話が先だ」などと言えば不自然だったことは確かだが、クラーナに限らず吟遊詩人が持つ特質――「機会があれば歌いたい」――が優先されたようにも、思える。
「何でも」
それを見送るようにしながら、先に口を開いたのはクエティスだった。
「彼はこちらの男爵閣下のお客人と聞きました。あなたもですかな」
「俺? 俺は違うよ」
エイルはそうとだけ言った。「クラーナの友人」も「通りすがり」も、いささか奇妙である。
「あなたはタジャスのお方で?」
しかしクエティスは突っ込んできた。エイルは肩をすくめる。
「ここの生まれじゃ、ないよ」
どうとでも取れる言い方である。このあたりは「口先の魔術師」シーヴに学んだやり方だ。
「ではどちらの」
更に商人は問う。エイルはむっとした顔を作った。
「何だよ。俺がどこで生まれ育とうと関係ないだろ」
「それもそうですな。ただお話のとば口をと思ったのですが。不快に思われたのでしたら、失礼を」
商人は丁寧に謝罪などする。絵に描いたような人当たりの好さ。わざとらしい、と感じるのはエイルがこの男の正体を知っているためなのだろうか。
キイ、と入り口の戸が開いた。いらっしゃい、と主人の声がする。エイルはふっとそちらを見やり、どきりとした。
ウェンズだ。
彼はくると言っていたのだから、そうしてやってきたことには何の不思議もない。驚くことではないはずだ。
だがエイルは驚いた。と言うのは、ウェンズの顔の右半分を覆っていた酷い傷跡が見当たらないからである。
(目眩まし、かな)
魔術で傷がないように見せかけているのかもしれない。そんなふうに思った。
(んなことができるんなら、最初からやっときゃいいのに)
ついエイルはそんなことを考えた。
エイル自身はあの傷にもう慣れてしまって、こうして傷がないウェンズを見る方がびっくりするのだが、初対面であればもちろん逆である。ウェンズはそれを気にしている様子ではなかったが、人を驚かせたくないと思うならばいつも隠しておけばいいのではないかと思ったのだ。常にやっておくことは難しいのかもしれない――駆け出しにはよく判らない――が。
ただこの場合、ウェンズの外見は何の変哲もないから、エイルが見知らぬ客をじっと見ているのは不自然である。そう考えた彼はすぐにクエティスに注意を戻した。
「どなたかお待ちで?」
「別に」
だがクエティスは、客の来訪に気づいたエイルが入り口に目を向けたと見て取って、言及してきた。エイルは商人の言葉にぶっきらぼうに応じる。肯定はもちろんしないが、わざわざ声高に否定しても奇妙だろうからだ。
「ああ、もうすぐ歌がはじまりそうですね。黙りましょうか」
見ればクラーナは、店の一角の卓や椅子を適当に動かして「詩人の舞台」を作り上げ、調弦をしているところだった。
(追及はしてこない。俺も客になり得ると、まだ思ってんのかな?)
「いつでも歌を歌いたい」が詩人の特質なら、商人の特質は「誰でも客にしたい」だろうか。「東の品」に全く興味を見せなかった若者の機嫌まで取っておこうというのならば、大した商売根性である。
クラーナは調弦を終えると店内を見回した。客たちは、珍しい東の商人からの買い物に加えて男爵閣下の客人たる吟遊詩人の歌が聴けるという思わぬ幸運に目を輝かせ、それぞれ席に座るとクラーナを注視していた。クラーナはすっと宮廷ふうの一礼をして――クエティスのそれよりずっと上手だった――椅子に座ると弦楽器を抱え、ゆっくりと奏ではじめる。
優しい調べが流れはじめた。
ゆったりとした前奏が終わると、クラーナの声が緩やかに響き出す。
その曲はどうやら、恋する少年の物語歌のようだった。「吟遊詩人クラーナ」と言えば、アーレイドの城下では神秘的な歌を歌うとして評判が高かったものだが、どうやら無難な選曲をしたようだ、とエイルは思った。
少女に恋をした少年はどうやら内気で、とても思いを告げられない。彼女の笑顔を見ているだけで幸せだと思って、声をかけることすらできずにいた。歌はそんなふうにはじまった。