10 堕落したもんだ
そんなことを考えながら魔術師協会の扉からアーレイドの街に出ようとしたときだった。背後から、彼を呼ぶ声が追ってくる。
「ああ、エイル術師。まだいらっしゃいましたね、ちょうどよかった」
「今度は、何」
ダウの次はスライが呼んでいるとでもくるのだろうか。
「エディスンのウェンズ術師から、もしエイル術師がいるようならと」
「よっしゃ!」
思わずエイルは握り拳を作った。
「きた甲斐があった! どこで話せる?」
指示された協会内の小部屋に舞い戻ったエイルは、深呼吸をして心を落ち着け、彼を捜すウェンズの気配を探り返した。
何かある。
ウェンズがわざわざエイルに言葉を送るというのならば、もちろん「何かある」に違いなかったが、エイルが思ったのはそういうことではない。
何かが――動く。それは予感、それとも、予知。
「エイル、商人の居所が知れました」
こういった心の声を交わすとき、魔術師たちは余計な挨拶や雑談はしない。ウェンズはずばりと本題に入った。初めの頃は少し戸惑いもあったが、何度か繰り返すうちにそういうものなのだと慣れてきた。
「見つかったのか」
エイルは指をぱちんと弾いた。
クエティスという男が偽物屋の一員であることは間違いなく、ウェンズはまずレギスの街でその男を追っていた。何とも悔しいことに、エイルとシーヴがかの街で当の〈紫檀〉とごたごたをやらかしていたタイミングで、クエティスはレギスにいたらしい。
だが商人は、また仕入だか販売だか両方だかに「本拠地」を離れたようだった。〈紫檀〉の長ダナラーンがエイルと――シーヴと――交わした約束について知っているのかは、判らない。知っていて、なおかつ長に従う気があれば、首飾りのことは諦めるはずだが。
「で、どこだ」
エイルは当然の問いを発し、やってきた返答に目を見開くことになる。
「タジャスです」
成程、あれはそういう予感であったのだ。物事が急に同じ方向を目指して動くのだ、と言うような。
「すぐに行く」
エイルはそう答えていた。
答えたあとで考えたのは、シーヴのことだ。
(何か判れば報せると……約束したんだよな)
エイルは唸った。
(でも、せっかくランティムに戻るつもりになってるのに、こんな話をしたら)
当然、領主の義務も夫の義務もまた忘れ去るに決まっている。本人としては、忘れてなどいない、この話を追うことこそどちらへの義務も果たすことになる、などと言うに決まっているが、これはどうにも〈神官と若娘の議論〉であり、互いが万事納得することなど有り得ない話だ。
これまでエイルはシーヴに譲ってきた。口先に負けたという形でもあったが、頑として否と言うこともできたのに、しなかった。今度は、どうすべきか。
(よし)
エイルは心を決めた。
(俺が約束したのは、ランティムに戻ったら、その後、判ったことを報せるという内容だったよな)
伯爵閣下はまだ戻っていらっしゃらない、つまり、まだ契約は稼働していないと考えることができる。
こうした言霊をねじ曲げる行為は、あまり好ましくない。エイルが最初からそのつもりでいたならそれもひとつの手段だが、あとから言葉尻で内容を都合よく変えてしまうのは言霊を軽んじる行為になるからだ。
(でもこれは、この際、ありだ)
彼はそう考えることにした。
(放浪領主を本来の領地に帰すことは正義であるはずだ、うん)
少し遅れるがウェンズも行けるというのでタジャスで落ち合うことを約束し、エイルは協会の力を借りつつ遙か東南の町へと跳ぶことにした。
ウェレス領北端、タジャス。
同じウェレスでもカーディルよりはだいぶ北になる。気候の温暖なアーレイドに比べればまだまだ寒いが、凍える感じはもうなかった。
「アーレイドのエイルだ。少しこの町に滞在する。ほかからやってくる術師と合流するが、ここで魔術騒ぎを起こすつもりはない」
魔術師協会の力を使って跳んだ先は、当然、タジャスの魔術師協会になる。彼はまず最初に、協会にそう釈明しておいた。
もちろん、魔術師が余所から訪れることはあるだろう。協会はいちいち、それらの全てを管理するというようなこともない。
ただ、あらかじめ言っておいた方が〈無傷の腕に包帯を巻かれる〉ようなことにならなくてよい。それだけだ。
そこでふと彼は「まるで魔術師のように」「協会の仕組みを便利なものであるかのように」考えている自分に気づいた。
実際エイルは魔術師で、協会は魔術師に便利だ。それを認めることは堕落だと思っていたが――。
(ああ)
(堕落したもんだ)
ウェンズは協会に頼らずとも、自らの術で移動をしてくるだろう。向こうにはそれくらいの魔力があるし、エイルがタジャスをふらふらしていてもどこにいるかは判ってくれるはずだ。これについては、協会に連絡を頼む必要はない。
エイルはとりあえず黒ローブを脱ぎ、いささかかさばるそれを袋に詰めると、タジャスの町をうろつきだした。
ここは小さな町だ。
と言っても、アーレイドのような王城都市に比べればという話であって、仮にも男爵領である町が一目で見渡せるほど狭いようなことはない。
となると、適当にうろうろして件の商人にばったり出会うことも、まず起こり得ない。だいたいエイルは向こうの顔を知らないのだから、すれ違っても判らない。
エイルは通りすがりの町びとを捕まえると、市の立つ時間と場所を尋ねた。いまは昼どきだが、市は朝と夕に立つと言う。該当する広場の位置も訊いてから、エイルは少し急ぎすぎたかなと思った。
(向こうは逃げてる訳でもないんだし)
(夕刻に合わせて、くればよかったかな)
どこかの酒場でひと休みをしてもいいが、せっかくここにきたのならば見ておきたい顔もある。口の上手い商人に相対するなら、力を借りた方がいいかもしれない相手だ。
(クラーナはこの町にいるはずだ)
次にエイルは男爵の館の場所を尋ねた。市の場所を尋ねたときよりも少し不審な顔をされたが、これまた後ろ暗いところはない。エイルは特に気にせず、胡乱そうにしながらも教えてくれた相手に礼を言った。