06 覆さないことだよ
いい加減、顔を見せておかないとあとが怖いと思った。
それを言うならば、もう既に怖い。
いや、怖いというのではないが、気が引ける。本当のことを全て話すことはできないのに。それとももっと単純に、親に怒られたくないというような、人が幾つになっても逃れられない〈初覚え〉のためかもしれない。
「きたね、人攫い」
そうきたか、とエイルは顔をしかめて母を見た。
「人聞きの悪いこと、言うなよな」
「何だって? 聞こえないね。幼い子を無理に保護者の手から奪い取って何日も隠したまま、それが人攫いじゃなくて何だって言うのさ? さあ、お吐き。あの子をどこへやったの、この腐れ魔術師」
アニーナはいろいろな形でエイルを罵倒するが、魔術師呼ばわりするとき、その機嫌はかなり悪いことを示す。「腐れ」がつけば最低最悪だ。
「ええと」
もっともらしい作り話はいくつか用意したのだが、たとえば「本当の親が見つかった」などという本来であれば歓迎されるべき物語であっても、いまのアニーナが納得するとは思えなかった。
「それが」
エイルは迷い、普段であれば最悪と考えるであろう選択肢を採ることに、する。
「言ったよな。あいつ、不思議な力を持つんだって」
「とんだ人攫いの口上だね」
「本当なんだよ」
エイルは頭をかいた。
「俺さ、その、俺がいきなり魔術師協会に籠もらされたこと、覚えてると思うけど」
「忘れたいね」
「実はラニ――サラニタも」
「エイル」
アニーナは両手を腰に当てて息子を睨んだ。
「馬鹿なこと、言うんじゃないよ。あの子もあんたみたいに、いきなり魔術師サマになりましたなんて」
見抜かれた。
「そんな戯けた話で母親を騙せると思うんなら、エイル、あんたは馬鹿じゃ済まないよ」
どうやら「馬鹿である」ことは前提である。
「そうやって息子のことを馬鹿馬鹿言うなよな」
思わずエイルは反論した。だがアニーナは鼻をふんと馴らす。
「馬鹿を馬鹿と言って何が悪いのさ。悔しかったら少しでも利口になってご覧。ああ、ヴァンタンは賢かったのに、外見ばっかり似て」
その言葉は、少しばかり意外だった。いや、父が賢いのが意外というのでは、ない。
「俺、父さんに似てるのか」
親子なのだから似ているところはあるだろうと思っていたけれど、母はあまり、父の話をしない。するときは「いい男」という表現が多く、息子に対してはやらないのだから外見は似ていないのだろうと漠然と思っていた。
「似てるさ。おんなじ髪の色に目の色」
母親は右肩をすくめた。
「笑い方も、声も。あんたが知らないはずの、あの人の癖までね」
そう言ったアニーナの様子は、エイルが滅多に目にしないものだった。どこか儚げで、まるで、少女のような──。
似合わない、と息子は思った。
「それって、どんな」
「何だって?」
「癖って、どんなんだよ」
「言わないよ」
アニーナは唇を歪めた。
「あたしとヴァンタンの秘密さ。お前なんかに教えてやるもんか」
「俺はそのふたりの息子の、はずだが」
「嫌だねえ、夫婦の秘密は子供なんかに教えないもんだよ」
ころころとアニーナは笑う。いつの間にか、普段通りだ。
(普段通り?)
(……機嫌は少し、直ったみたいだな)
見知らぬ父親と血筋に感謝である。
「それで、サラニタちゃんは」
「ラニタリス」
「何だって?」
「新しい名前をもらったんだ」
「──魔術師協会で、かい」
「嫌味ったらしく厄除け切んな! 違うよ、話したことあんだろ、東の友人のシーヴってのがさ、名前くれたんだ」
「ああ、話に聞く悪戯坊ずかい」
第三王子にして伯爵閣下も形無しであるが、これはエイルがシーヴの悪行ばかり母親に話しているせいとも言う。
「蒲公英ねえ。可愛いけれど」
アニーナは顔をしかめた。
「その名の通り、綿毛になってふわふわと飛んでっちまわないだろうね」
エイルはむせかけた。
説得は大成功とは言えなかったが、少なくともアニーナは、エイルがラニタリスをもう母親のもとに預けるつもりがないことは理解した。
理解と納得は、もちろん違うが。
「あのさ、母さん」
息子を含めた魔術師全般に呪いの言葉を吐き続ける母を制するようにエイルは声を出す。
「いきなり連れてっちまって悪かったけど、これだけは言っとく。俺は、ちゃんとあいつの面倒を見るから」
「……それは」
エイルの宣言をしかし母は胡乱そうに聞いた。
「父親としてかい、魔術師としてかい」
「ど」
エイルはどもった。
「ど、どっちも歓迎したくないけど」
「煮え切らない子だね! あの子の面倒を見るってんならそのどっちかだろう! まさかエイルお前、レイジュちゃんの代わりにあの子を恋人に育てようなんて気の長いことを」
「考えるかっ」
冗談ではない。確かにラニタリスの成長は早そうだが、魔物の主であるだけでも神様に恨み言を言いたくなるのに、恋人など!
「何つーかその」
エイルは少し迷ってから思いきって続ける。
「いずれ、機会があればラニに会わせるから」
有り得ない速度で成長している「あれ」を見れば、いまよりも納得してくれるのではないかという希望――望み薄だ――と、あとは素直に、母を喜ばせたいという孝行心である。知らせないことの方が孝行やもしれないが。
「事情は判らないけれど」
アニーナはじろじろとエイルを見る。
「決心したんならもう覆さないことだよ」
「そのつもりだよ」
「誰だって最初は『そのつもり』でいるさ。問題は、お前に根性があるかだね」
上から下まで、まるで初めて見る相手を検分するかのように、母は息子を眺めた。
「エイル」
「何だよ」
「あんたの父さんは、あんたとあたしのために死んだ。その轍は踏むんじゃないよ」
アニーナの口調は特に厳しくなったり、感傷的になったりしなかったけれど、その内に秘められたものは伝わった。二十年以上前に死んだ愛する夫と、その面影を残す息子への、深い思い。
「俺は」
エイルは少し戸惑い、それから続けた。
「これまでと同じに、いつだって、帰ってくるよ」
「エイル。息子や」
しかし母親はその宣言に感心も感動もしないで――鼻を鳴らした。
「そういう言葉は、早いとこ新しい恋人を作って、その娘にお言い」
アニーナに敵うはずがないのである。